りんどうの会~がん患者遺族の会・佐賀~

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2025年10月

10月, 2025年

夫の17回忌のこと

2025/10/27

「夫の十七回忌のこと」

 

今年九月末、県内の温泉地、森林に囲まれた山あいの宿に一泊した。

私と娘二人の家族、孫合わせて九人で。

私は夫を十六年前の、この時期に亡くしています。副腎がんに罹患し、五年間の治療をしたのち、秋風と共に旅立って行ってしまった。

五十歳でした。

 

山育ちで、自然の中や森へ行くのが好きだった。

宿に入ると、檜木の香りがして何度も深呼吸をしたくなる。 清流がそばを流れてて、せせらぎの音が心地よい。虫の音も和む…

生きていたら、二人でこの宿へ旅行しただろうな。

 

その日は、十七回忌の法要を済ませたばかりだった。数ヶ月前から、娘たち家族と計画、準備をし

私は、このような供養は初めてで、少しワクワクした。

午前中に、自宅で法要を執り行う。

読経が流れる中、様々なこと、思いがよぎっていく。

 

私は四十九歳、娘二人は大学二年生と、高校三年生。葬儀の日は、天候不順で、出棺の時は大雨、風が強く吹き荒れていた。

涙が次から次へと出て、娘たちも声を上げ泣いている。親として、子どもがこの様に泣いているのを見るのは胸が張り裂ける位、辛かった。

こんな辛く悲しいことが、この世にあるのかと、苦労知らずの私は身に染みた。

 

十六年、長かった。回りの方々からは、「もう十七回忌ですか、早かったですね。」と、言って下さるが、長かったと、言うのが実感だ。

現在は、とても穏やかな気持ちで過ごせるようになった。

がんで、家族や身近な人を亡くした遺族が集い語らう場に出会い、参加をさせて貰っている。

「グリーフケアサロン・りんどうの会」と言う。

入会して十一年経つが、この会では随分と救われて来た思いがある。

また、私は五年前位に体調を崩して、通院を続けている。今は落ち着いているものの、体力的に供養を続けていけるか不安なのも正直な気持ちである。

娘たちは、それぞれ家庭を持ち母となり、私は八歳から一歳までの四人の孫に会うことが出来た。

 

和尚さんの心に沁みる読経が流れる…

ふと、八歳の孫の横顔が目に入る。

正座をして真っ直ぐに前を向き、真剣な顔付きである。思えば、初孫であるこの子は誕生してから時折、回忌供養に伴われて来ている。

他、幼児たちも親や姉の普段とは違う様子を感じているのか、静かである。

小さな手を合わせている姿を、爺じは優しく微笑んでいた。

穏やかな優しい時間が流れていく…

これまで私たち家族を見守って下さった方々や友人達に感謝の気持ちで一杯になった。

 

山の宿は静かに更けていった…

と、終わるのだろうが想像した通りさながら保育園のよう。子らは無邪気に遊び楽しそうだ。

「明日も泊まりたい」と言いにくる。

「うんうん、婆ちゃんもだよ」。

娘が、「鼻の形が、おとうに、似てきたよ」と子のを指して言う。何だか嬉しくなる。

夕食の時に、宿の方が集合写真を撮って下さった。

始まる前にバックの中から、小さな写真入れを出してテーブルの上に立てた。

婿が、お酒を置く、夫が笑っている。

 

その写真入れは、亡くなってすぐ買い求めたもの。

何枚か、入るようになっていて写真等は、当時のまま。

毎日、毎日、持ち歩いた。バックを買い替えた時もまた、それを入れた。

親友と夫とのツーショット、旅先での夫と私。

娘の大学入学の時、アパートで揃って撮ったもの、引っ越しが終わり安心した笑顔の夫。

ギターを弾いている娘、夫が撮ったものかも。

山歩きで拾った紅葉とイチョウの葉まで入れている。色褪せて形は崩れたが、毎年行っていた神社のもの。

美しい紅葉は、今でも昔のままだ。

 

皆が寝静まった頃、撮って貰った集合写真を眺める。

娘が、写真入れを手にしているのに気付いた。

夕食時は、テーブルの上に置いていたので、そこにあるものと、思っていた。

娘は、その写真入れを初めて見たのではなかろうか。

 

私は、少し恥ずかしいのと、手にしてくれている気持ちが嬉しくて、胸がいっぱいになった。

写真入れは、「お守り」のように、これからも持ち続けていくだろう…

 

十七回忌を終えたことを、りんどうの会員さんへ伝えると、すぐに返信をいただいた。

同じ経験をしたもの同士、共感し合って、寄り添ってもらっている安心感がある。

 

「十七回忌を迎えられて、賑やかになられたのですね。爺じも、これからもずっと一緒ですよ。

でも、やっぱり孫を抱っこして婿どのと、呑みたかったですよね、皆で、仲良く法事をされて、

肩の荷が、一つ、降りましたね。」と。 

 

        夫・岩永治幸・十七回忌に寄せて

         2025年・930日・岩永淳子

RFLルミナリエメッセージ

2025/10/05

リレー・フォー・ライフ2025佐賀

ルミナリエ点灯式メッセージ

がん遺族の会 りんどうの会の福島です。

今ここにあるエンプティテーブルにはいろんな意味が含まれています。その中で私たち遺族には、ガンで命を失った愛する人が座る場所です。私たちにとっては大切な場所です。今、その椅子に座っているであろう妻は、2011年1月に帰らぬ人となりました。3年2か月の闘病生活でした。

がんの疑いがあると言われ、好生館で検査を受け、既に肝臓にまで転移していることが判明し、やがて手術の日となりました。

午前中の3時間にわたる手術の結果、大腸ガンは取り除かれ、そして午後は転移した肝臓にあるガンの摘出手術です。

開いてみないと判らない部分があるので、その時は1時間ほどで終わりますという医師の説明を受けて、何とも言えない気持ちになっていました。

家族待合室のドアが開くたびに、呼ばれる名前が違うことを祈り続けました。しかし時間が経つにつれて他の家族はみんな引き上げていきます。最後に私一人残された時間は重苦しく、今度は無事に終わり早く帰ってきて欲しいと願うだけでした。

夕方6時過ぎに手術は終わりましたが「どうしても取れない場所があった」と聴かされ、この先の不安でいっぱいになりましたが、

その後の妻は、笑顔を絶やすことなく気丈に立ち振る舞っていました。

そんな妻でしたが、抗がん剤の副作用からくる味覚障害に一番苦しんでいました。嗅覚はしっかりしているので、記憶にある味を期待して口に運んでも、味もそっけもない物体があるだけ。腫瘍マーカーは下がってはいても、体力の低下やその他の副作用で苦しみぬいていました。

治療が2年程過ぎたある日、妻が言った一言は「もう治療はしない 抗がん剤は辞める」というものでした。

その言葉が意味するものをお判りいただけるでしょうか。死を覚悟し、そう遠くないある日、死が彼女を迎えに来ることを受け入れた一言でした。

抗がん剤の副作用で弱っていくくらいなら、自分は人として自分らしく生きて、美味しいものを美味しいと感じながら食べ、元気なうちに旅行にも行きたい。普通の暮らしをしてその日を迎えたい。

妻も悩んだと思います。でもその顔には微笑みさえも浮かんでいて、どこかにさわやかさがありました。

「ごめんね」という妻の決心を私は受け止めました。そして妻は、「私はあなたによって生かされていく」と言ってくれました。

それからの妻との時間はとても楽しく過ごすことが出来ました。念願の二人だけの旅行も楽しみました。生きていることの素晴らしさを感じ取っていた日々でした。

しかし病魔は確実に妻の体を蝕んでいました。

やがて好生館の緩和ケアに入院しましたが、その時も妻は「治療をやめたことで、私はとてもいい時間をもらった。これから緩和ケアに行くのも、最後まで自分らしく生きていたいから」としっかりと前を向いていました。

妻との時間が少なくなっていくのを感じていたある日、ベットに戻れなくなった妻を抱きかかえたときに、あまりの軽さに不覚にも涙を見せてしまいました。それから間もなく妻は帰らぬ人となりました。生ききることの覚悟を私に教えてくれた妻でした。

 家族は、患者と共にがんに立ち向かい、患者の苦しみを傍で見つめながら、患者と交代することのできない辛さや、苦しみを抱えて共に生きています。

 そして、遺族となるその日を迎えることで始まる、悲しみの時間。永遠に続くと思われる悲しみの中からの立ち直りを模索する中で、グリーフケア 悲嘆回復という言葉に出会うことが出来ました。

 遺族にもいつか笑顔が戻ってくることを信じて、がん遺族の会「りんどうの会」を立ち上げています。遺族のみなさん!りんどうの会の扉をノックしてください。

 同じ悲しみを経験した仲間が、あなたを待っています。

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