りんどうの会~がん患者遺族の会・佐賀~

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みんなの投稿

年間行事【2022年度】

4月

ホームページ4月1日リニューアル
花見BBQ

会 場福島自宅

予定日4月2日土曜日サロン終了後

7月

土曜日サロン唐津市にて開催

会 場唐津市高齢者サロン「りふれ」

日 時7月2日土曜日(会場予約 13時~17時)

8月

がん遺族つどいの会(第1回目)

会 場佐賀県健康づくり財団・さんあいプラザ

日 時8月20日(土曜日)

9月

リレー・フォー・ライフ・ジャパン佐賀2022

会 場どんどんどんの森

日 時9月17日~18日

10月

10周年記念行事

会 場佐賀県メディカルセンター4階城内記念ホール

日 時10月1日土曜日 13時~16時 終了後に反省会を予定(17時~19時)

11月

懇親旅行(開催可能であれば)

目的地未定(九重方面)

予定日未定(11月頃)

1月

がん遺族つどいの会(第2回目)

会 場佐賀県健康づくり財団・さんあいプラザ

日 時2023年1月7日(土曜日)

社会との取組

リレーフォーライフ佐賀

リレーフォーライフ佐賀へ協賛と参加

佐賀で開催される「リレーフォーライフジャパン 佐賀」へ初開催より参加しています。 リレーフォーライフは、がん患者さんやそのご家族を支援し、地域全体でがんと向き合い、がん征圧を目指します。 1年を通じて取り組むチャリティ活動です。

「がん遺族つどいの会」への参加

「がん遺族つどいの会」への参加

佐賀県と佐賀県健康づくり財団の共催で開催されている「がん遺族のつどいの会」へにアドバイザーとして参加しています 第1回の開催時は、佐賀大学医学部の臨床心理士の先生の進行で、とっても良い雰囲気の中で2時間のつどいの会が進みました その後に、ピアノとサキソフォーンのコラボ演奏まで企画されていて素敵な時間を過ごすことができました グリーフケアを必要としている方々と寄り添える、こんな機会に参加させて頂き感謝でした。

緩和ケア症例検討会「がん遺族のグリーフケア」での体験発表 

「緩和ケア症例検討会「がん遺族のグリーフケア」での体験発表 

佐賀県医療センター好生館での緩和ケア症例検討会「がん遺族のグリーフケア」にて、体験談を発表する機会を頂きました。 医療関係者の方々に、会員の方々の体験談を熱心に聞いて頂きました。これを機会にしてグリーフケアが必要な方々に広まって医療関係者の方々と協働して心のケアを行うことが出来れば本当に素晴らしいことです

イオン 幸せの黄色いレシートキャンペーンへの参加

イオン 幸せの黄色いレシートキャンペーンへの参加

サポートを必要としているボランティア団体と、「応援したい」という気持ちをお持ちのお客さまを結ぶ取り組み、それが「イオン 幸せの黄色いレシートキャンペーン」です。てグリーフケアが必要な方々に広まって医療関係者の方々と協働して心のケアを行うことが出来れば本当に素晴らしいことです。

会員の体験談

体験談 50代女性

50代 女性

2018年1月30日 夫を膵臓がんで 亡くしました。53歳でした。

2016年職場の健康診断の腹部エコーにて膿胞ありとのこと
検査結果を私が見つけ嫌がる主人をつれて好生館へ。
初めての精密検査を受けました。
もともと病院嫌いだった主人よくよく聞いてみれば検査結果は2~3回前からあったとのこと。

精密検査では腫瘍マーカーも高くないので恐らく内分泌性の腫瘍でしょう。でもこのままだとがん化するかもしれないので 手術しますか?という主治医の先生の説明にいずれがんになるのならという思いから、手術にふみきりました。

手術は大変時間がかかり、とても難しくなる。中を開いてみないと分からない。がんがあり、膵臓を摘出するということはがん細胞が他の臓器に転移するというお話も聞いていました。
その時はなんとして主人を何とかがんから救いたいという思いから手術に踏み切りました。

手術の途中電話があり、がん細胞が見つかりましたという報告。私は目の前が真っ白になりました。
その時は一人でいたのでショックで壁にうなだれたことを今でも覚えています。

もともと体が大きくたくましかった主人。術後、集中治療室にいる主人に会いに行ったとき。まだ麻酔が効いているから 手術の労いをしてあげてくださいと主治医の先生より言われ、いざ 主人の側へ行ってみるといきなり「どうだったか?がんはみつかったか?」と言われ、返す言葉がありませんでした。
その時先生から「がんは全部取れました。手術は成功したんですよ。奥さん何を泣いているのですか。」と励ましていただきました。

術後、何とか体調もよく3か月の入院、家庭療養にて職場へも復帰しました。再発予防薬の抗がん剤服用しつつ、これまでの主人と変わらない生活が続いていました。

そのあと肝臓にがんが見つかったのは、2018年2月。それからも仕事は続けながらも抗がん剤点滴へ。
抗がん剤は効かなくなるとどんどん変えていき、最後には 抗がん剤3日間連続。
抗がん剤のボトルをぶら下げて仕事にも行きました。
本来ならばこんな厳しい抗がん剤、私はとても耐えることができなと思います。
でも主人は家族のために耐えて頑張りぬきました。

抗がん剤も効かなくなり、2019年1月には 肝臓に水玉模様のがん。多発性肝転移。
1月23日腫瘍内科の先生より、「これ以上の治療はありません。身の回りの整理をして下さい。」と言われました。
これからは、民間療法だと励ますと「もうよかよ」と主人。

旅行好きだった主人。1月に 富士山を見に行く予定をしていて
止めましたが どうしても行こう。と強行してでかけました。

素晴らしい天気のなかの富士山。河口湖、山中湖。秩父にいた息子と今の嫁も会いに来てくれました。おいしいもの食べて素晴らしい景色みてしばしの家族の時間を過ごしました。旅行3日目吐血。空港より好生館へそのまま入院。

翌日、輸血により日中元気になった主人。見舞いにきた家族に「がんばるよ。ありがとう」と笑顔で言ってくれました。そのわずか数時間後、急変。あっという間の最後でした。
主人はよく「俺は花火のようにパッと散るけん」と話していました。本当に 花火のように バッと散り 逝ってしまいました。

主人が亡くなってから、本当につらくて、つらくて 生きているのもつらくていっそ一緒に逝きたいとまで思っていましたが家族に心配をかけられないと心にふたをしてしまいました。

そんな時、リンドウの会にであい、福嶋さんはじめ、会員の方に心の思い聞いていただき、のどのつまり、胸の苦しみがス~ッと取れていくのが感じました。
悲しみのポケットを作り、主人はいつも側にいる。共感してもらえるということ。
りんどうの会に出会い。私が得られた大切なものです。本当に 出会いに感謝しています。
ありがとうございました。

体験談 50代男性

40代 男性

去年(2021年)8月下旬に長女(5歳)を白血病で亡くしました。

7月7日の七夕の日に病院から治療を諦めざるをえないと伝えられ、あと数週間かもしれないし、一ヶ月ほどかもしれないと告げられました。だからそ、全力で家族の時間を過ごしてくださいと言われ、在宅で抗がん剤や痛み止めを打ってもらいながら家族で過ごしました。治療を断念してから亡くなるまでの1か月半ほどは、自分の人生にとっては究極の時間でした。仕事でもプライベートでも、少しでも良い結果を得るためにやれることをやってきた、でも悲しい結末が一ミリも変わらないのであれば何を頑張っていいのかと、自問自答したりもしました。それでも最後は、1日・1時間・1分、娘と一緒に過ごす時間を慈しみながら過ごしました。

コロナ禍であまり出歩けない中、無観客で開催された東京オリンピックを、一緒に観ながら過ごしました。自分にとっては、一生忘れない夏です。ただ、在宅での看取りは覚悟も必要で、長女が弱っていく姿を目の当たりしなければならないのは、本当につらい体験でした。特に、亡くなる3日ほど前、昏睡状態になりながら長女が「もう治らないよ」と叫んだときは、何もしてやれない無念さとつらさで全身が震える思いがしました。

長女は3歳の時に病気を発症し、最終的に400日ほどを病院で過ごし、つらい治療にも耐えて本当によく頑張りました。ただ、親としては常に悲観にくれる毎日で、幼稚園に通わせられない中でこれから教育がどうなるか、あるいは治療が長引く中で転勤続きの自分の仕事との兼ね合いはどうなるのかと、先々のことを考えては悲観にくれていました。ただ、今となってはただただ生きていてもらいたかったと、ただそれだけです。子どもは生きているだけで100点満点。生きているだけで親孝行なのだと、心底思います。

グリーフケアについてはその必要性を、娘が生きている頃から感じていたように思います。特に、娘を生かす選択肢が少しずつ失われていった去年4~6月ごろは、妻にも「なんとかなるよ」「大丈夫だよと」とは言えなくなり、精神的におかしくなりそうな日々でした。娘を失うことになった場合のショックをどう受け止めればいいのかを考え始め、ダメージをコントロールしようと必死でした。相談相手は、事情が事情とあって、ほとんどいなかったなと思います。日本の職場や男性社会は、家族の話をする文化があまりないよなと、このとき考えたりしました。

長女を失ってから1年以上がたちました。治療や、最後亡くなるまでの日々は、私にとって本当につらい体験であると同時に、ものすごく大切で、いつまでもそばに置いておきたい体験でもあります。記憶の箱をあけると、どっと涙があふれてくるのですがそれでもたまには触れて、しっかりと抱きしめたいという、そんな存在です。記憶は口にして、言葉にしてこそより鮮明になると思いますし、やはり話す機会は大切だと思います。そうした場こそが、りんどうの会なのだと感じています。同じ境遇の人たちが集まり、しっかり思いを受け止めてくれます。体験を共有できる諸先輩に出会えたことを、すごく感謝しています。

体験談 60代男性

60代 男性

 

令和2年3月27日に妻が亡くなりました。乳がんでした。

お医者さんから「乳がんです。」と聞いた時は、あまり驚きませんでした。なぜなら一番治りやすい癌だと思っていたし、私の周りにも乳がんになられた方や乳房切除の手術をした方がおられ みなさん元気だったからです。
しかし、くわしく検査されて「転移しています。」と言われたときには、頭が真っ白になりました。我慢強くて、厳しい病状であっても、私にはひとことも、苦しいとは、言わずに旅立っていきました。

平均寿命が80歳以上と言われる今日、妻が59歳で死ぬとは全く想定していませんでした。亡くなってすぐは、「亡くなったんだ」という心境はあまりなく、いないのが不思議という状況でした。

さびしさは3ヶ月すぎたころから、恐怖に近いぐらいありました。いつも帰ると「おかえり」と言うあの声が聞こえない。 普段は、配偶者を失うことなど考えていません。考えるのをさけているのかも知れません。心の準備ができている人もいないと思います。

34年間一緒に過ごした妻を失い、つらさは、これまでに経験したことがない  想像をはるかに超えた物でした。喪失感と悲しみ、そして後悔が日々増して来る。何を見てもどこに行っても亡くなった妻のことが思い出されます。 わかっています。大切な人を亡くした悲しみが、一朝一夕でいえるはずがない。瞬時に効果を発揮する特効薬もない。つらく、寂しさが込み上げてくる毎日です。 亡くなった相手のことを話せる相手って意外といないものです。

 そんな時にネットで「りんどうの会」を知りました。私が「りんどうの会」の門を叩いたのは、2021年11月でした。この会で知り合った仲間の誰もが、同じように亡くした人への愛情と思慕の念が強くて、その悲しみと辛さは心から共感できたし、自分の境遇と思い合わせて心ならずしも遭遇した悲しみと不幸にたいして共に戦う戦友に出会った気分になりました。
初めて参加した日に同じ境遇にいる人の話を聞かせていただき、同じ思いをしている仲間がいるというだけで、なぐさめられる気持ちがしたのを覚えています。自分の気持ちをかくすことなく、話せる場所を与えていただいたのも大きかったです。

言葉で癒され心が落ち着く事があります。涙が落ちる事もありますが「がんばろう」と思う事もあり、心がほっとできる会が「りんどうの会」です。 いつか悲しみに慣れるとは、今はまだ思えないけど、ゆっくり前に進みたいと思います。ありがとうございました

体験談 50代女性

50代 女性

「がん」私にとってこの言葉は、大切な息子尚矢、当時小学五年生へのがん宣告を受けた時の様々な感情を思い起こさせます。
産まれてから病気とは無縁で、健康に育ってきた息子が突然の小児がん、急性骨髄性白血病の診断を受け、私たち家族の生活は一変しました。

9年前のことですが当時のことは鮮明に覚えています。子どもはがんの知識、白血病の知識もありません。ただ一年近い治療が始まる。自分の日常が奪われることにショックを受けていました。これから始まる長い治療に病院の看護師長さんが「先生も看護師も病院スタッフ全員が、チーム尚矢で頑張るから、お父さんお母さんと一緒に尚矢くん、がんばろう」と言ってくれました。病気と闘うのは一人じゃないよ。みんながついている。不安とこれから息子がどうなってしまうのか、受入れることが出来ずにいた私には力強い言葉でした。

覚悟を決めた息子はバスケットボールで鍛えた精神力で化学療法(抗がん剤治療)に臨みましたが副作用で抜けていく髪の毛、消耗していく体力、辛い日々の始まりとなりました。
沢山の励ましの言葉、病院内のサポートを力に子どもらしさを持ち、治療を続けていましたが息子の白血病は治りにくいものであったため骨髄移植が必要となり、福岡の小児がん拠点病院へ転院しました。

小児病棟では沢山の子どもたちが治療を受けています。自分だけじゃない、みんな頑張っている。同じように病気と闘う仲間がいることで明るさも取り戻すことが出来ました。
幸い骨髄を提供して下さる善意あるドナーさんに恵まれ骨髄移植を受け、辛い辛い拒絶反応から回復。やっと治療から解放され、待ち望んだ私たち家族の日常が戻ってきた矢先、早期の再発が見つかり、余命宣告を受けました。「後悔しないために学校に行かせてはどうですか?」病院の医師からの言葉に戸惑い、治すために、生きるために必死に頑張ってきたのに残り少ない命をどう過ごしていけばよいのか、奇跡が起きて欲しいと願いました。

小学六年生になった息子にとって、学校、友だちの存在がこれからの希望、力になったのか、薬の効果も併せて息子は二回目の移植が出来るまでになっていました。
再度の長い入院治療へ向けて、治ったと信じている息子へもう一度と納得させることは辛いものでした。一回目の治療は失敗だったのか。泣きながら自分の気持ちを整理しているようでした。再度の入院まで全力で運動会、修学旅行、バスケットの大会とやりとげ、友だちに一切弱音を吐かず、今度こそ治すと強い気持ちで入院しました。
でもまだ小学生です。麻酔をかけての処置の後、意識がまだはっきりしない中、「なんで俺がこんな目に、
でも、誰も悪くない」とぽつりと呟いていました。
何度も何度も辛い経験を繰り返した息子。私はただ傍にいることしか出来ませんでした。
辛い時は抱き合って一緒に泣き、「絶対治るよ」と励ましました。

約二年間の治療、最後の最後まで諦めず、未来を信じ、前向きに一生懸命生きようと頑張った息子は、中学校の入学式に一日だけ登校し、十二歳の若さで旅立ちました。息子の人生は短いものでありましたが、しっかりと生きた証を残してくれました。そんな息子が私の誇りです。
でも、私は息子を亡くした喪失感でいっぱいで、暗闇に立ちすくんでいました。私の希望であり、未来だった息子を亡くし、どう生きていけばよいのかわからずにいました
私と同じような経験をしている人はいないのだろうかとネットを探し、グリーフケアの取組みを知りました。
月日の流れの中で、人前で涙を流すことも少なくなり、自分の感情のコントロールが出来るようにもなりました。
でもそれは、悲しみが無くなったのではなく、心の奥にしまい込んでしまったからなのかも知れません。

りんどうの会の「あなたの悲しみを分かち合う」というフレーズが心に残り、会に入りました。ありのままに悲しみを出し、泣ける場所がある。寄り添って下さる皆さんがいる。
自分の思いを話し、涙し、少しスッキリとした気持ちでまた日常生活を送ることが出来る。息子の事を話せる場所、グリーフケアの必要性を私は実感しています。佐賀県内でもっと認識が広がり、グリーフケアを必要としている方が扉を開けてくださるようになればいいなと思っています。

体験談 60代男性

60代 男性

 妻が大腸ガンで亡くなったのは平成23年1月末、59歳でした。もう二度と逢うことのできない寂しさ、電気もついていない真っ暗な家、暖房など効いてない冷たい家、ただいまと言っても返事のない誰も私を待っていない家に帰ってくるのがとても辛く、その辛さから逃げるようにお酒に溺れる日々でした。

 また、妻の死を知らない方から「奥様お元気ですか」と声をかけられて、「亡くなりました」と答えた時。街中で妻によく似た人を見かけた時。妻が喜びそうな話題に触れて、早く帰って話してあげたいと思った時に「もういないんだ」という現実に引き戻され、心が傷んだものでした。
 そんな時に、がん遺族の会を立ち上げませんかと声をかけてもらったのが、りんどうの会を立ち上げるきっかけでした。

 妻のガンが見つかってから3年2ヶ月を、様々な思いを抱えながら、共に歩きました。悔しいことや、疑問に思ったことなどいろんな場面に遭遇しましたが、一番大きな決断を迫られたのは、抗がん剤治療を止めるという妻の申し出を受け止める時でした。抗がん剤治療を止めるということは、死が現実のものとして迫ってきます。死を受け入れる覚悟が求められます。
 でも妻は、抗がん剤の副作用で、脱毛や指先の荒れに加えて、味覚障害を起こしていました。嗅覚は正常でしたので、香りは美味しく感じるのに、口に入れた瞬間にそれは灰色の物体に変化して味がしないどころが、そのザラザラとした感触が辛かったと言っていました。
 そのような時、別の治療で通っていた病院の院長から、「このまま抗がん剤を続けてインフルエンザで死ぬか、治療をやめてガンで死ぬか、人は結局死ぬんだから」という話を聞いて、「人はいつか死ぬ」ということに改めて気づかされました。

 人はいつか死ぬ、そうであれば人として生ききって、美味しいものを美味しいと感じる暮らしがしたい、普通の暮らしの中で最後を迎えたいという妻の願いを受け入れることにしました。
 死ぬことの選択は、生きることの選択。そう言った思いに行き着くまで、何回も妻と話をしました。

 そして、抗がん剤治療をやめる決心をしました。最後の抗がん剤治療を受けたその日から322日目に妻は帰らぬ旅に逝きました。

 それでも、抗がん剤をやめたことで妻は元気になりました。東京、京都と子供達の所に行くこともできました。夏には私と旅行にも行きました。妻の父親の白寿のお祝いでカラオケも披露しました。周りの人たちは、妻のがんは治ったものと思われていたようです。
 妻が望んだ生活がそこにはあったのでしょうか。
 最後の旅行の時に妻がポツリと言った言葉
「私はあなたによって生かされる」
その時は意味もわからず、聞き返すこともできずにいましたが、時が経つにつれて、おぼろげにわかるような気がしています。

 秋も終わる頃から徐々に体調が悪化して行き、腫瘍マーカーも数値も徐々にあがっていき、一日のほとんどを毛布に包まって横になっていました。そして緩和ケア科に入院することになりました。
 緩和ケア科に入院すると妻は一時的には元気を取り戻し、春には退院したいねと言っていたくらいです。

 その緩和ケア科で看護師の方からかけていただいた言葉は本当に暖かく嬉しいものでした。
 それは、亡くなる数日前のこと。家族を呼ぶようにと言われて病室を後にした時に、「緩和ケアは患者さんだけでなく家族の方の心のケアもするのですよ、辛い時は声をかけてください」と言ってくださいました。堪えていた涙が溢れ出してしまいました。持って行きようのない辛い心を慰めてくれました。その数日後に妻は亡くなりました。

 悲しさと寂しさが一気に押し寄せてきたのは、葬儀も終わって、親戚も家族もそれぞれの生活に帰った後、一人自宅に残されたとき、もう絶対に帰って来ることのない現実をつきつけられたとき、白い布に包まれて祭壇に安置された遺骨と写真を見つめながら一人ぼっちな自分を感じた時に、言いようのない絶望感と悲しさが溢れてきました。

 冒頭にも言いましたが、毎日毎日がお酒に頼る日々でした。それでも昼間に仕事がないときは、よくドライブに行きました。決まって九重・阿蘇方面です。山道を走りながら、もしかして天国に向かう道が現れたら、迷うことなくそっちにハンドルを切りたいと願ったことも1度や2度ではありませんでした。もちろんそのような道があるはずもなく、引き返す道がとても重たく遠く感じました。

 そんな私を救ってくれていたのが、ペットの黒柴犬のユリでした。ユリは、緩和ケア病棟の妻の病室にも何回か行きました。入院している時の朝の散歩では、意識して病室から見える道を歩き、「下を通るよ」と連絡を入れたものでした。

 そのユリを朝夕散歩に連れていかねばならないという思いが、ある意味規則正しい生活を作ってくれました。
 ユリは裏庭で放し飼いにしているのですが、一周忌の数日前からユリは気が狂ったような興奮状態にあり、木戸を破って逃走を図り交通事故にあって大怪我をしました。獣医師に聞くと、飼い主の一周忌に合わせたように死んだり、異常な興奮状態になるペットは多いそうです。
 きっと、動物にだけわかる本能的な勘で、妻が帰ってきていることを感じ取っていたのかもしれません。
 そしてまた、ユリが生還してきたのは、きっと妻が私がひとりぼっちになることを心配して、生かしてくれたものと思いました。

 そのような時の遺族会の立ち上げのお誘いは、自分が進むべき道を示してもらったような思いがしたものです。藁にでもすがる思いでそのことに没頭して行きました。

体験談 50代女性

50代 女性

 私が皆様方にお伝えしたいことは、「グリーフケアは患者は勿論、患者の家族、・遺族にとっても大切である。グリーフケアのためには、ありのままの感情を安心して出し、気持ちを分かち合える人と場所が必要だ」ということです。
 私の夫は、娘が3ヶ月の時に大腸ガンと診断され、3歳になる直前に亡くなりました。夫が亡くなって10年が過ぎ、家族・親族・周囲に助けられ、私は看護師になりました。幼かった娘も現在中学1年生になり、子育てをしているというよりは、娘に支えられていることの方が多い日々です。
 私が「りんどうの会」を知ったのは、がんの父親を持つ娘の育て方をどうすればよかったのか、看護師として働く上でも、子育てを振り返り、新たな出発点にしたいと考えていた時でした。振り返れば、夫の介護が中心となり、夫が亡くなってからはすぐに働き始め、娘の世話は保育園や祖父母に任せっきりになっていました。すぐに働いたことは、私にとっては気が紛れて良かったと考えています。しかし、娘が抱っこをせがんできても、「今、忙しいから後でね」とすぐに対応することがなく、十分な子育てをしてこなかったことを後悔していました。そのような中、がん患者の子どもの支援にも「グリーフケア」があり、子どもの支援のためにも、がん患者の配偶者、遺った親の支援が必要であることを知りました。そして、佐賀にも遺族を中心として活動しているセルフケアの会:「りんどうの会」があることを知りました。
 りんどうの会に初めて訪れた時、私は軽く自己紹介するだけのつもりでした。しかし他の会員の自己紹介で様々な思いを聴いていると、自分と共通・共感することがありました。初対面にもかかわらず「私のことも聴いてほしい」と思いました。例えば「どうしてがんに気づけなかったの?」「何か症状はなかったの?」との周囲の言葉に自分を責めたこと。「今は辛いけど、時間が必ず解決してくれるから」「思ったより元気で安心した」「気持ちはわかるよ」「大変だったね」等の思いやりの言葉さえ卑屈に感じてしまったこと。「泣いたら駄目、心配かけたら駄目」と感情に蓋をし、前に進むことだけを考えてきたこと等を、堰を切ったように話してしまいました。涙が止まらなくなり、たくさん涙を流した後は、気持ちが楽になり、本当は誰かに自分の辛い思いを聴いて欲しかったことに気づくことができました。
 同じような経験をした遺族のりんどうの会の皆さんに共感しながら、聴いてもらうことで安心して話せたように思います。そして、娘や夫に対して、これまでは何もできなかったとばかり考えていましたが、その時にできることを精一杯やってきたのだと思えるようになりました。
 10年が過ぎても、寂しさがなくなったり、夫を忘れたわけではありません。思い出すと辛くなることもあります。けれども、思い出すことは自分の気持ちの整理に繋がり、生活に楽しみや生きがいを見つけるきっかけになってきたと考えます。そのためには、安心して話せる人と場所が必要です。その安心できる人と場所が「りんどうの会」です。

体験談 60代女性

60代 女性

 永遠の別れは、秋風が吹く9月の終わりでした。副腎ガンと闘った夫の5年間を先ずは話したいと思います。
 腎臓の横にある副腎という小さな臓器のガンと診断された時は、大きくなっており直ぐに手術となりました。抗がん剤治療後は仕事にも復帰し、以前の生活が戻ったかのようでした。
 3年が過ぎた頃、転移を告げられました。セカンドオピニオンをしたいと、九州がんセンターへ。二度目の手術があり、また抗がん剤投与、初めて髪の毛が全て抜けました。
 1年近く経った頃、肝臓と後腹膜にも転移があると再び告知。自分でも予後が悪いガンの様だと言っていました。情報が欲しいと同じガンで治療している人と話ができたらと調べ、パソコンの前にいつも座っていました。肝臓にできたガンは治療が難しいと告げられた時は退院をしたいと言っていました。
 紹介状とフィルムを持ち上京。東大病院へ診断を仰ぐことになりました。「遠いところからよく来たね。自宅から通いながら治療ができる病院がありますよ。頑張ってください」と励まされた時の夫の嬉しそうな表情、姿は今でも忘れることはありません。それから、久留米・熊本での病院で治療をしていただき、自宅での生活も増え、旅行もできました。カメラを持ち、自然の中を散策しては花や景色を撮っていました。
 抗がん剤で味覚が変わり、食べることが難しくなった時は、嘆くのでもなく食材を買い求め、調味料を工夫してよく台所に立っていました。「美味しくなった、これで食べられる」と家族のぶんまで作ってくれ嬉しそうでした。
 そんな夫に身体のきつい状態やガンの進行程度、副作用の症状など話すことすらためらわれ、その先のことを考えても封印していた様に思います。病気になる前は、地域の事業にも参加し、スポーツ少年団にも力を入れていたので、子ども達に会えず残念そうでした。
 一部の方には事情を打ち明けていましたが、近隣の方々にはオープンに出来なかった事が悔やまれます。リレー・フォー・ライフというガン患者さんのイベントが福岡で初めて行われると新聞の記事を見ながら、ここなら話ができる、一緒に行けば良かったと、これも悔やまれます。

 その日は、自宅でコーヒーを煎れたり朝食をいつもの様に摂っていましたが、腹痛を訴え急変しましたので、入院となりました。一週間後でした。会話は出来て、よく汲みに行っていた水を飲み美味しいと言ったり、退院したらまた行こうと話しました。亡くなる日の前日も「また明日」と家族で帰宅した翌朝、病院からの連絡で駆けつけた時は、会話はできませんでした。
 とうとう来てしまった・・今日なのだ・・と。それまで封印していたものが溢れ出て、もっと話をしておけば良かった、ちゃんと話をしておけば良かった、会いたい人もいただろう、会わせたい人もいた・・悔しかったのは夫だったでしょう。
 亡くしてしまったのち、私は想像もしなかった心境に動揺し、この世にこんな苦しみがあるのか、立ち直ることが出来るのだろうか・・と誰にも言えず悪いことばかりを考えていました。
 心理本や精神医学の書籍コーナーで自分の今の気持ちと同じものはないかと読み漁ったり、他の方の苦しみと自分のとを比べたりと全く気持ちは落ち着きませんでした。
 りんどうの会のドアを開けるのも勇気がいりました。抑えていた溜まっていた気持ちをスムーズに伝えられるのか・・・。でもそこは同じ体験をし、同じ悲しみを一番に理解してもらえる場所でした。前もって話すことを考えなくても、消化不良の様に溜まっていた気持ちが溢れ出て、他の人の聞いていても、うなづくことも多く、少しは理解ができている気がします。7回忌が過ぎ、今年で8年となりました。当時は大学生と高校生だった二人の娘も20代後半となりました。そして長女は今月の中頃には母になります。「お父さんの命日に生まれたら嬉しいな」と言っています。
 初孫を抱いて欲しかた、良きおじいちゃんになったであろう夫を想う時、また込み上げてくるものがありますが・・・周りの方々のおかげでやっとここまで来ることができ、夫の分まで未来を向いていこうと思っております。

体験談 60代男性

60代 男性

皆さま、こんにちは。私は十三年前に当時四十五歳だった妻を、滑膜肉腫という筋肉にできるがんで亡くしました。私が四十七歳、一人息子が中学一年生の時でした。
 この会には設立当初から参加させていただいています。もう亡くなって8年経っていましたので、当初のつらさは薄らいできていたものの、つらいことには変わらず、この会に参加することで、もう一度自分の気持ちを整理してみよう、また自分の経験を他の人に伝え、役立ててもらえるならという思いからでした。もちろん亡くなった当初もこういう会があったらと思っていました。
 まず、当初のつらさについてお話してみたいと思います。やはり後悔ということです。妻の命を救うことができなかった、あの時ああすればよかった、など。最初混乱しているときは病院のせいだと考えた時もありましたが、冷静になってみると、もちろんそういうことではありません。
 それから、孤独ということ。これから何十年か一緒にいると思っていた人がいなくなってしまう、よく心にぽっかりと穴が開くとい
いますが、まさしくその通りの気持ちでした。私の場合両親と息子がいましたので、ふだんは話す相手もいましたが、それでもテレビでみるような、パートナーがいる時と同じように話しかけようとして、いなくなったことに気付き、寂しさを感じてしまうこともありました。また、妻の夢をみることもあったのですが、私は夢の中で、亡くなったことが夢だったと思い、その瞬間大きな安堵感を覚えたことを思い出します。やはり、大きなプレッシャーを感じていたんだと思います。
 このようなさまざまな苦しみ、悲しみを感じながら、日々を過ごしてきた私ですが、その中で支えとなったのは、亡くなる数日前に妻が言ってくれた私への感謝の言葉です。すでに脳への転移のため、言葉がうまく聞きとれませんでしたが、その日泊りで看病していた私に感謝の言葉ははっきり聞き取ることができました。生前から私のピンチの時に助けてくれた妻でしたが、自分の体が大変なのに
私へみせてくれた気遣いに、今思い出しても頭が下がります。なお今年は息子が素敵なパートナーをみつけ、今月入籍という嬉しい知らせを妻に届けることができました。
 この会に参加して、会員の皆さんとそれこそ共に泣き、笑ってきました。共通する体験も多く、人間の心の不思議さも感じます。また、同じ体験をしている者同士ということから、不思議な体験など知人にも言えないことも話すことができました。まだ少しの一歩ですが前に進むことができたと感じています。
今 苦しみの中におられる方にはぜひ一度この会に参加してみられることをお勧めしたいと思います。
 ご清聴ありがとうございました。

体験談 60代女性

60代 女性

こんにちは
私は平成6年、わずか3ヶ月の闘病ののち、夫を癌で亡くしました。
ちょうど3番目の子供が生まれ、我が家も一段と賑やかになり幸せの中での突然の出来事でした。
 風邪ひとつ引いたことのない夫が体調不良を訴え検査入院しました
異常なく直ぐに、帰って来てくれると軽く思っていました。
しかし、もう手の施しようのない末期ガンという予想もしない、医師から私への告知でした。
夫は入院当初はとても元気で、誤診ではないかと思うほどでした。
まだ37歳、あんなに元気だったのに・・・人間ドッグも受けていたのに・・・年齢も若く、友人や周りに同じような体験者も無く、一番の相談相手の夫には相談できず、あまりにも大きな悲しい現実を、直ぐには受け止めることは出来ませんでした。
これから我が家に襲いかかる、逃れることの出来ない、悲しい現実を、何も知らずに、はしゃいでいる、子供達を見ていると胸がおしつぶされるようでした。
「まだ、やりたいことがたくさんある。子供達の成長も楽しみだし、必ず元気になるから心配しなくて良いよ」と優しく声をかける夫に真実を告げることは出来ませんでした。
その言葉とは裏腹に癌は刻々と夫の体をむしばんでいきました。
 八方塞がりの状況の中で、妻としての時間は残り少ないけれど、とにかく妻として精一杯の事をしよう、妻の時間を楽しもうと思いました。残り少ない夫の人生を思う時、病室に毎日、飛びっきりの笑顔を届けたい、と思いました。
でも「又、明日、来るね!」と笑顔で手を振り、扉を閉めた途端、大粒の涙が流れました。いつか終わりを迎える入院生活を思う時、途方もない不安と悲しみでいっぱいでした。

 夫も少しずつ病気が悪くなるにつれ死期を悟ったのだろうと思います。
自分の亡き後、苦労するであろう私のことを不憫に思ったのでしょう。少しのことにも最期まで「ありがとう・・ありがとう」と優しい夫でした。
平成6年7月26日の朝、37歳の若さで他界しました。
長男8歳、次男5歳、三男は8ヶ月でした。
幼子を抱えて悲しみの中、途方に暮れた日々が遠い日のことのように又、昨日の事のように思い出されます。
夫が他界し約2年間、引きこもりに近い状態で過ごしました。
子供達の成長していく姿を見ているといつまでも立ち直れない自分の姿が情けなくなりました。
夫があんなに大切に思っていた子供達をしっかり育てる事、幸せに生きていくことが何より夫の望むことだと思いました。
想像もできないような大きな悲しみや喪失感を体験し、この経験を活かして生きていけたら・・・と思うようになり看護学校に通い始めました。
45歳で看護師になり緩和ケア病棟で働き始めました。
私の描いていた未来予想図とは随分、違う人生を歩いてきました。
私のような経験はもう私達家族だけで終わりにしてほしいと思いますが、残念ながら今、この時も大きな悲しみの中で苦しんでいらっしゃる方はおられます。
看護師として患者さんやご家族に寄り添うことは出来ますが、ご遺族に寄り添うことには限界があります。ご遺族の悲しみに寄り添い、少しずつでも希望を持ち、歩いていけるよう、りんどうの会があります。ご遺族のお心に寄り添いながらこれからも私らしく生きて行きたいと思っています。

体験談 50代男性

50代 男性

皆様、こんにちは、私は「治らないがん」に罹られた方と、その方の家族の方の「心と魂へのサポート」の必要性について、体験を交えて話させて頂きます。よろしくお願いします。 私の唯一の家族である私の妻は、今から5年前の夏、消化器系のがん「スキルス胃がん」と診断されました。そして、約7か月間の闘病生活の後、40代半ばで旅立ちました。 愛する人が病に罹ること、病と闘った末、この世から旅立つこと、離別すること。その辛さは、愛する人の年齢とは無関係であることは、頭では理解していましたが、 現実に突きつけられると、心はまったく納得できませんでした。  妻と私にとって、スキルス胃がんの告知は、あまりにも突然で、絶望的なものでした。 妻が胃に違和感を感じて、住まいの近くの病院を受診すると、すぐに、同じ町にある「がん診療連携拠点病院」へ転院することになりました。 査結果は、「スキルス胃がん」でした。 妻は転院時に、「病気について全て告知を受ける」と意思表示していましたので、先ほどの病名とともに、「胃以外の場所への遠隔転移を伴うステージ4」であること、 「手術の適応外」であること、「抗がん剤による化学療法を行うか行わないかの選択と、体の痛みを少なくする緩和治療の必要性」について告知を受けました。 担当の先生は、告知で妻が受ける衝撃を出来るだけ少なくしようと、慎重に言葉を選んで話して下さいました。話しては下さいましたが、妻が直面した現実は、「病気は治らない この世から旅立つ時が遠からず訪れる」というものでした。 告知を受けた後すぐに、私と妻は、標準治療以外で治癒する可能性のある治療方法を懸命に探しました。  先端医療、研究中の治験、自由診療によるさまざまな治療方法について、化学療法による入院治療中には、主治医の先生にも相談しました。  ですが、「胃がん全体の約1割を占めるスキルス胃がん、遠隔転移を伴うスキルス胃がんは、『治しにくい』というより『治らないがん』なのだとゆう事実は、心は納得できなくても程なく受け入れざる得なくなりました。 治らない病と対峙する妻のため必要としながら得られなかったもの、それは、「妻の心と魂に寄り添い、心と魂の不安・痛みを少しでも癒やすことのできる、私以外の存在」でした。「体の不調・痛み」については、お医者さんと看護師さんがしっかり対処して下さいました。 ですが、「心と魂の不安・痛み」に対処して頂ける場所が見つからないのです。最愛の、唯一の家族である妻ですから、私が気付き、出来ることは、当然すべて行いました。「私が全力で妻を支える」と、自分に誓いました。  それでも、「『病との闘いの末、旅立つ最愛の人』を看取った経験のない私は、私自身の力不足を痛感しました」 その拠点病院には、ボランティアの方が運営する、がんサロンがあり、毎月2回開催されていました。妻のサポートをして頂ければと、妻の入院治療中に、私一人で行きました。しかし、運営スタッフの方が、全員、その時点では「がんサバイバー」なのです。 「治らない、治す手立てがない」事実を突き付けられた妻を連れて行ける訳がありません。  病院外の地域社会にも、最後まで見つけることはできませんでした。「治らないがんと向き合われている方と、家族の方に寄り添う」には、寄り添う側が高いスキルを身に付け、細心の注意を払って寄り添う必要があります。その様な場を作ることが難しいことも、今は実感として理解しています。ですが、闘病中の妻と私には、やはり必要でした。 正確な知識と、豊富な経験のある医療関係者が、医療行為として、「治らないがん」と向き合われている方に、体と共に、また、体に先立って、「心の不安・痛み」を和らげて頂ける医療システムが、日本に構築されることを願っています。また、がん遺族となった私は、がんによる離別に対峙して、乗り越えた遺族であれば、「魂の痛み」に寄り添うことはできなくても、「心の痛み」に寄り添うことはできるのではないか、と考え始めています。

体験談 40代女性

40代 女性

(体験発表使用された要点筆記です)

いろんなことに敏感になった部分がある  例えば、悲しいニュースを見るのがとても辛くてテレビを見ることができない  ひょんなことで耳にした言葉が、自分と夫との思い出に関わるものだったら、泣いてしまう  夫が入院していた病院に、ずっと行くことができない  食欲減退、お酒、リストカット、精神科  やる気がでない、好きだった仕事を今はやめたい、  落ち込みやすい  すぐ引っ越して、色々捨てた  実家の生活にいまだに慣れない、自分の家は白山 *多くの人が考えていることと、きっと違うだろうと思うことがよくある。  例えば、健康で長生きをしたい?  大人になっても夢や希望を持って生きたほうがいい?  生きていればいいことがきっとある?  人生、60歳で退職してからが面白い?  おいしいものをたくさん食べると幸せ? そのせいで、自分が人からどう思われているのかがとても気になって仕方ないし、話すのが怖くなってしまった。あまり話さない、人との接触を避けてしまう、そしてまた、「付き合いの悪い人だ」とか、「何を考えているのか分からない人だ」とか、思われているのではないかと、さらに気になってしまう。だからといって、この気持ちは自分ではどうすることもできなかった。遺族会で話すことで、随分楽になった。

体験談 年齢不詳女性

年齢不詳 女性

 私の夫は、2018年4月30日に胆のうがんで亡くなりました。がんと診断される2~3年前くらいより、腺筋症疑いと言われ、半年に1回CTを撮っていました。全く動く気配はなかったのですが、その半年の間に突然進行し始め、転移をし、手術することは出来ませんでした。


 私は夫の前にも両親を二人ともがんで亡くしており、がんの怖さというものを知っていました。治療は苦痛を伴うものばかりで、闘うつもりがなくても、つらい闘病生活になることも理解したうえで、ただただがんに抗ってやろう、抵抗してやろうと思いやってきたように思います。


 主治医の先生にお願いして通常の抗がん剤治療、放射線治療に加えて、免疫療法、陽子線治療、温熱療法等、考え付く限りの治療をさせていただきました。最後に入院したのは2月の終わり、ちょうど今ぐらいの頃で、まだ寒い時期でした。


 自宅に帰れなくなるとは考えてもいなかったのですが、その重い状況に職場に無理を言って休みをもらい付き添いをしました。ただ眠っている姿を見続けるだけのこともあれば、夜中に何度も起こされ眠れない時もあり、夫が食事を食べれなくなると一緒に食事がのどを通らなくなりました。病院という閉ざされた空間で過ごす中でも時間は流れ、桜が咲いて、散っていきました。世の中は暖かく明るくなっていっているのに、季節にも取り残されていっているような気持になりました。


 そんな頃、臨床心理士さんや緩和ケアスタッフの方々が優しく声をかけてくださっていたのですが、それらに対し、「あなたには、私の気持ちはわからないでしょう!!」という気持ちになり、同じ経験をした人と話がしたいと思うようになっていきました。

 

 りんどうの会については、当時私の姉妹が調べてくれて、すぐにその存在を知りました。ですが、すぐに足を運ぶことは出来ませんでした。理解はしていても、大切な人を失うということは、想像以上に重く、こんなに辛いことがあるのかと思うほどに、寝て起きても覚めない夢のような、夫のいない現実を受け入れられず、どうやって生きて行ってよいのか分からなくなりました。夫の面影を追わずにはいられず、逆に思い出のありすぎる自宅には帰ることがつらくなり、苦しくて顔を上げられず、下ばかり向いていたように思います。意を決してようやく会に参加したのは、四十九日が過ぎた頃でした。


 りんどうの会は治療機関ではないので、1回参加したからといって直ぐに気持ちが癒される、落ち着くというものではありません。同じがん患者の遺族といっても、がんの種類や取り巻く環境も、全て違う人たちの集まりです。静かに話を聞くだけ、慰めや励ましの言葉もないです。共通することは、同じ辛い経験をしたということ、辛い思いを抱えているということです。それだけで、自然と話が出てきます。気持ちを共有することが出来ます。それまでは全く知らない人たちでした。イベント等に一緒に参加し、ゆっくり時間をかけて話をしていくことで、これ以上はない仲間になっていきました。

 私の気持ちの中でも少しづつ変化があり、入院中の辛い時期しか思い出せずに泣いてばかりだったのですが、ある日星空を見上げながら歩いている時に、ふと「あの人もあの世で一緒に歩いているのかなぁ」と思いました。まめな人でしたから、旅行など出かける時はいつも綿密に計画をたて、メモを書き出していました。そんなことを思いだし、それに思い至った時にふいに「あの人のことだからあり得る」と現実味を帯びて感じるようになりました。今はあの世を歩き回って下調べをしているのではないか。私があの世に行った時に道案内が出来るように・・。それならば私もあの世で再会した時に、お互いにどうだったよと話が出来るようにしたいと思いました。
それから徐々に外に目を向けられるようになっていったように思います。


 初めの1年はどうしても前の年の出来事と比べてしまい辛く思うこともありました。車で一人になった時、テレビに映る仲睦まじい老夫婦を見た時等涙が出る時もありました。ですが、夫の写真に囲まれて生活する中で、私に見せてくれていたのはいつも笑顔だったんだなと感じられるようになっています。
今は、りんどうの会は、私にとって唯一の楽しみとなっています。

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