りんどうの会~がん患者遺族の会・佐賀~

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2020年3月

3月, 2020年

2月19日緩和ケア症例検討会から ④

2020/03/23

令和2年2月19日

佐賀県医療センター好生館・緩和ケア症例検討会から

遺族の体験発表 ④

私の夫は、2018年4月30日に胆のうがんで亡くなりました。がんと診断される2~3年前くらいより、腺筋症疑いと言われ、半年に1回CTを撮っていました。全く動く気配はなかったのですが、その半年の間に突然進行し始め、転移をし、手術することは出来ませんでした。

 私は夫の前にも両親を二人ともがんで亡くしており、がんの怖さというものを知っていました。治療は苦痛を伴うものばかりで、闘うつもりがなくても、つらい闘病生活になることも理解したうえで、ただただがんに抗ってやろう、抵抗してやろうと思いやってきたように思います。

 主治医の先生にお願いして通常の抗がん剤治療、放射線治療に加えて、免疫療法、陽子線治療、温熱療法等、考え付く限りの治療をさせていただきました。最後に入院したのは2月の終わり、ちょうど今ぐらいの頃で、まだ寒い時期でした。

 自宅に帰れなくなるとは考えてもいなかったのですが、その重い状況に職場に無理を言って休みをもらい付き添いをしました。ただ眠っている姿を見続けるだけのこともあれば、夜中に何度も起こされ眠れない時もあり、夫が食事を食べれなくなると一緒に食事がのどを通らなくなりました。病院という閉ざされた空間で過ごす中でも時間は流れ、桜が咲いて、散っていきました。世の中は暖かく明るくなっていっているのに、季節にも取り残されていっているような気持になりました。

 そんな頃、臨床心理士さんや緩和ケアスタッフの方々が優しく声をかけてくださっていたのですが、それらに対し、「あなたには、私の気持ちはわからないでしょう!!」という気持ちになり、同じ経験をした人と話がしたいと思うようになっていきました。

 

 りんどうの会については、当時私の姉妹が調べてくれて、すぐにその存在を知りました。ですが、すぐに足を運ぶことは出来ませんでした。理解はしていても、大切な人を失うということは、想像以上に重く、こんなに辛いことがあるのかと思うほどに、寝て起きても覚めない夢のような、夫のいない現実を受け入れられず、どうやって生きて行ってよいのか分からなくなりました。夫の面影を追わずにはいられず、逆に思い出のありすぎる自宅には帰ることがつらくなり、苦しくて顔を上げられず、下ばかり向いていたように思います。意を決してようやく会に参加したのは、四十九日が過ぎた頃でした。

 りんどうの会は治療機関ではないので、1回参加したからといって直ぐに気持ちが癒される、落ち着くというものではありません。同じがん患者の遺族といっても、がんの種類や取り巻く環境も、全て違う人たちの集まりです。静かに話を聞くだけ、慰めや励ましの言葉もないです。共通することは、同じ辛い経験をしたということ、辛い思いを抱えているということです。それだけで、自然と話が出てきます。気持ちを共有することが出来ます。それまでは全く知らない人たちでした。イベント等に一緒に参加し、ゆっくり時間をかけて話をしていくことで、これ以上はない仲間になっていきました。

 

 私の気持ちの中でも少しづつ変化があり、入院中の辛い時期しか思い出せずに泣いてばかりだったのですが、ある日星空を見上げながら歩いている時に、ふと「あの人もあの世で一緒に歩いているのかなぁ」と思いました。まめな人でしたから、旅行など出かける時はいつも綿密に計画をたて、メモを書き出していました。そんなことを思いだし、それに思い至った時にふいに「あの人のことだからあり得る」と現実味を帯びて感じるようになりました。今はあの世を歩き回って下調べをしているのではないか。私があの世に行った時に道案内が出来るように・・。それならば私もあの世で再会した時に、お互いにどうだったよと話が出来るようにしたいと思いました。

 それから徐々に外に目を向けられるようになっていったように思います。

 初めの1年はどうしても前の年の出来事と比べてしまい辛く思うこともありました。車で一人になった時、テレビに映る仲睦まじい老夫婦を見た時等涙が出る時もありました。ですが、夫の写真に囲まれて生活する中で、私に見せてくれていたのはいつも笑顔だったんだなと感じられるようになっています。

 今は、りんどうの会は、私にとって唯一の楽しみとなっています。

2月19日緩和ケア症例検討会から ③

2020/03/16

令和2年2月19日

佐賀県医療センター好生館・緩和ケア症例検討会から

遺族の体験発表 ③

私の夫は6年前に胃がんで亡くなりました。最愛の人を失う気持ちは、どんな言葉を使っても決して表現できません。泣いても泣いても涙は枯れませんでした。自分でも抱えきれない思いを、持っていく場所もありませんでした。

 

誰かに聞いてほしいけれど、身内の人間、とくに自分の母親には、元気な姿を常に見せなければ、という強迫観念があります。一度、泣きながら姉に電話したことがありましたが、励ましや姉自身の経験談が返ってきて、心が癒されることはありませんでした。

友だちに話しても、やはり気を遣うこともあるし、何より、私が一番大切にしたいと思っていること(私と夫の間で交わした会話や、夫婦の思い出)などには、家族以外には触れてほしくないという思いがあり、すべてを吐き出すことはしませんでした。

また、夫と親交の深かった方々との交流だけは、唯一安らげる時間でしたが、その方たちと共有できるのは夫の生前のことだけで、死後の辛すぎる思いはやっぱり話せませんでした。

結婚記念日、誕生日、息子の就職など、本来なら家族で祝いたかった日や、命日などの悲しい日にも、一人で思いを馳せるしかありませんでした。「嬉しいよね」「悲しいよね」「そうだね」と語り合える夫はもう居ません。

 

時間とともに悲しみが薄れるわけもなく、眠れない、眠っても嫌な夢ばかり見てしまう、些細なことに過剰に反応して迷惑をかける、何にもやる気がでないなど、苦しみは募る一方となり、医療機関を頼ってみようと考えました。カウンセラーや精神腫瘍科医をネットで検索するうちに、この遺族会に出会いました。藁にもすがるような思いで訪れた私を、メンバーの方々は温かく受け入れてくださいました。

遺族会のサロンでは、その時に話したいことを、自分のペースで話せます。それを、最後まですべて聞いてもらえます。返事はなくても、共感してもらっているのが伝わってきます。

身内にも友人にも分かってもらえなかったことが、りんどうの会では全て分かってもらえたような気がしました。そして、心の奥底でずっとよどんでいた思いを、話したい、聞いて欲しい、という気持ちになり、話せば共有してくれる仲間がいるという安心感が生まれ、話してよかった、という満足感が得られるようになりました。

ここは私にとって一番の安らぎの場になっています。

2月19日緩和ケア症例検討会から ②

2020/03/09

令和2年2月19日

佐賀県医療センター好生館・緩和ケア症例検討会から

遺族の体験発表 ②

平成21年9月30日、5年間の闘病ののち夫は旅立ちました。

副腎がんを宣告されてから、治療方法を自ら選択し納得をして最後まで頑張っていました。5年間の後半は自宅に居て、抗がん剤の副作用はありましたが寝付くことなく、辛さを口にすることなく、生活を楽しんでいる様子さえありました。一分一秒でも長く生きて欲しい・・・本人は勿論、家族の願いも叶わず別れの日は来ました。

 とうとう来てしまった・・・今日なのだと動揺していたのを思い出します。

 亡くしてからというもの、喪失感というか、想像以上のものがありました。闘病中は死後のことなど口にすることは出来ず、頑張っている姿を見れば尚更でした。悲しくて、こんな悲しいことがあるのだと・・いつまで続くのかと、いや自分は正常なのだろうか、大丈夫なのだろうかと思い悩む日々でした。

 本屋の精神医学のコーナーで、自分と同じ気持ちのものはないものかと読み漁る、ニュースで流れる、他のものと悲しみを比べたりと全く気持ちは落ち着きませんでした。

 そんな中、目にしたのががん遺族の会佐賀りんどうの会の新聞記事。最初扉を開けるときは勇気がいりました。代表の「話したくないときは聴くだけでもいいですよ」の言葉に背中を押されたのも確かです。

 その頃は会員の方も少なくて、話の後の静かな部屋が少し重たく感じたこともありましたが、これまで心の中に溜まっていた思い悩んでいたことを打ち明けました。残された子ども達や家族にも言えなかったことを初めて話せる場所でした。それに共感して、私にもあったとうなづいては涙を流してくださる会員の方。回を重ねるごとに今日はあれを言おうこれも言おうと考えている自分がいました。

 仕事の疲れで、今日はもう行くのはやめようと思いつつも足が向いている。帰路は何となく心が軽くなり、行ってよかったと笑顔の自分がいる。

 入会して6年目に入り、これまで様々な活動やイベントにも参加させていただきました。体験発表では多数の方々に話をして聞いてくださったということが、自分の中でとても整理するすることが出来たように思います。

 会員の方からの素敵な言葉、「天国にいる旦那さんに良いお土産話を持っていけるように、笑顔で生きましょう」と。本当に心からそう思う今日この頃です。

2月19日緩和ケア症例検討会から ①

2020/03/02

令和2年2月19日

佐賀県医療センター好生館・緩和ケア症例検討会から

遺族の体験発表 ①

 

37歳の夫を26年前にわずか3か月の闘病の後、スキルス胃がんで看取りました。

専業主婦だった私は8歳、5歳、生後8か月の3人の子供を抱え大きな悲しみの中、途方に暮れました。

その頃はまだ、緩和ケアやインフォームドコンセントなども浸透しておらず、ましてやグリーフケアなど全くありませんでした。

夫のいない時間を生きていくことが辛すぎて、死んでしまいたいと思いましたが私がいなくなれば両親を失うことになる子供の事を思うと、それも出来ず本当に辛い日々を過ごしていました。親や、兄弟、友人などの前では心配を掛けまいと明るく振る舞っていましたが心の中は孤独一色でした。人と会うこと、出かけることも少なくなり2年ほど引きこもりに近い状態で過ごしましたが、子供達の成長をみているとこれではいけないと思うようになりました。友人の勧めもあり自分のような家族に寄り添える看護師になりたいと41歳で看護学校に入学し45歳で看護師になり緩和ケア病棟で働き始めました。

終末期の患者さんに付き添っておられた家族がやがて遺族になられ、あの頃の私と同じように苦しんでおられました。鹿児島でグリーフケアサロンを立ち上げ、ひと月に2回、昼と夜に開催しておりました。

ドアの向こうにどんな人が待っているのだろうかと思うと、初めて遺族サロンのドアをノックすることはハードルが高く、案内の新聞の切り抜きを半年以上、もっておられ、やっと来られた方もいました。

「こういう場があることを知らなかった。もっと早く来れば良かった。」との声も聴かれました

大きな病院、主に緩和ケア病棟のある病院では1回/年、遺族の会を開催しているところもあります。病院のスタッフによるグリーフケアは亡くなられた患者さんへの共有する思い出話など出来て良いと思います。

でもグリーフケアは医療者でも難しい分野であり「身内を亡くしたことが無いから遺族の気持ちがわからない」、「どう対応してよいか、又なんて声を掛けて良いかわからない」との声も多く聞かれます。医療現場は日々の業務に追われ大切なケアだと認識はしていてもなかなか、出来ていないのが現状だと思います。

医療者の方がグリーフケアに関心を寄せて下さり、がん遺族による遺族サロンがあることも伝えて頂けたらと希望します。

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