りんどうの会~がん患者遺族の会・佐賀~

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2月19日緩和ケア症例検討会から ②

2020/03/09

令和2年2月19日

佐賀県医療センター好生館・緩和ケア症例検討会から

遺族の体験発表 ②

平成21年9月30日、5年間の闘病ののち夫は旅立ちました。

副腎がんを宣告されてから、治療方法を自ら選択し納得をして最後まで頑張っていました。5年間の後半は自宅に居て、抗がん剤の副作用はありましたが寝付くことなく、辛さを口にすることなく、生活を楽しんでいる様子さえありました。一分一秒でも長く生きて欲しい・・・本人は勿論、家族の願いも叶わず別れの日は来ました。

 とうとう来てしまった・・・今日なのだと動揺していたのを思い出します。

 亡くしてからというもの、喪失感というか、想像以上のものがありました。闘病中は死後のことなど口にすることは出来ず、頑張っている姿を見れば尚更でした。悲しくて、こんな悲しいことがあるのだと・・いつまで続くのかと、いや自分は正常なのだろうか、大丈夫なのだろうかと思い悩む日々でした。

 本屋の精神医学のコーナーで、自分と同じ気持ちのものはないものかと読み漁る、ニュースで流れる、他のものと悲しみを比べたりと全く気持ちは落ち着きませんでした。

 そんな中、目にしたのががん遺族の会佐賀りんどうの会の新聞記事。最初扉を開けるときは勇気がいりました。代表の「話したくないときは聴くだけでもいいですよ」の言葉に背中を押されたのも確かです。

 その頃は会員の方も少なくて、話の後の静かな部屋が少し重たく感じたこともありましたが、これまで心の中に溜まっていた思い悩んでいたことを打ち明けました。残された子ども達や家族にも言えなかったことを初めて話せる場所でした。それに共感して、私にもあったとうなづいては涙を流してくださる会員の方。回を重ねるごとに今日はあれを言おうこれも言おうと考えている自分がいました。

 仕事の疲れで、今日はもう行くのはやめようと思いつつも足が向いている。帰路は何となく心が軽くなり、行ってよかったと笑顔の自分がいる。

 入会して6年目に入り、これまで様々な活動やイベントにも参加させていただきました。体験発表では多数の方々に話をして聞いてくださったということが、自分の中でとても整理するすることが出来たように思います。

 会員の方からの素敵な言葉、「天国にいる旦那さんに良いお土産話を持っていけるように、笑顔で生きましょう」と。本当に心からそう思う今日この頃です。

2月19日緩和ケア症例検討会から ①

2020/03/02

令和2年2月19日

佐賀県医療センター好生館・緩和ケア症例検討会から

遺族の体験発表 ①

 

37歳の夫を26年前にわずか3か月の闘病の後、スキルス胃がんで看取りました。

専業主婦だった私は8歳、5歳、生後8か月の3人の子供を抱え大きな悲しみの中、途方に暮れました。

その頃はまだ、緩和ケアやインフォームドコンセントなども浸透しておらず、ましてやグリーフケアなど全くありませんでした。

夫のいない時間を生きていくことが辛すぎて、死んでしまいたいと思いましたが私がいなくなれば両親を失うことになる子供の事を思うと、それも出来ず本当に辛い日々を過ごしていました。親や、兄弟、友人などの前では心配を掛けまいと明るく振る舞っていましたが心の中は孤独一色でした。人と会うこと、出かけることも少なくなり2年ほど引きこもりに近い状態で過ごしましたが、子供達の成長をみているとこれではいけないと思うようになりました。友人の勧めもあり自分のような家族に寄り添える看護師になりたいと41歳で看護学校に入学し45歳で看護師になり緩和ケア病棟で働き始めました。

終末期の患者さんに付き添っておられた家族がやがて遺族になられ、あの頃の私と同じように苦しんでおられました。鹿児島でグリーフケアサロンを立ち上げ、ひと月に2回、昼と夜に開催しておりました。

ドアの向こうにどんな人が待っているのだろうかと思うと、初めて遺族サロンのドアをノックすることはハードルが高く、案内の新聞の切り抜きを半年以上、もっておられ、やっと来られた方もいました。

「こういう場があることを知らなかった。もっと早く来れば良かった。」との声も聴かれました

大きな病院、主に緩和ケア病棟のある病院では1回/年、遺族の会を開催しているところもあります。病院のスタッフによるグリーフケアは亡くなられた患者さんへの共有する思い出話など出来て良いと思います。

でもグリーフケアは医療者でも難しい分野であり「身内を亡くしたことが無いから遺族の気持ちがわからない」、「どう対応してよいか、又なんて声を掛けて良いかわからない」との声も多く聞かれます。医療現場は日々の業務に追われ大切なケアだと認識はしていてもなかなか、出来ていないのが現状だと思います。

医療者の方がグリーフケアに関心を寄せて下さり、がん遺族による遺族サロンがあることも伝えて頂けたらと希望します。

第65回緩和ケア症例検討会から

2020/02/21

19日に行われた佐賀県医療センター好生館での緩和ケア症例検討会
「がん遺族のグリーフケア」お陰さまで無事に終了しました
当初は60分で終る予定でしたが
会場の反応を感じてつい熱が入り過ぎてしまい
10分ほどオーバーしてしまいました
ちょっぴり反省です
  
80名程の方にご参加頂きました本当にありがたいことです
医療関係者でもない私や会員の方々の体験談を熱心に聞いて頂きました
質問や名刺交換もさせて頂きました
  
これを機会にしてグリーフケアが必要な方々に広まって
医療関係者の方々と協働して心のケアを行うことが出来れば
本当に素晴らしいことです
  
私が勉強し実践し体験して来たグリーフケアについて話をする機会を頂いた
好生館の関係者の方々に感謝です
 
そして今回の講話での反省から次の機会に向けてパワーポイントを作り直し
コンパクトで分かり易いようにと早速資料編集をしました
  
今も本当に多くの遺族の方々がグリーフケアを必要とされています
出口の見えない悲しみに心を閉ざしている遺族がいます
数少ない遺族会がここにあることをお知らせ頂きたいと思います
悲しみが癒えて来て笑顔が戻る日のお手伝いが出来ればと思っています
  
今回は本当に貴重な経験でした
ありがとうございました

(会員の方々の体験発表も随時お届けします)

活動報告2020年2月のこと

2020/02/09
今月の19日に
佐賀県医療センター好生館で発表する
第65回緩和ケア症例検討会の内容について
りんどうの会の会員のみなさんとの打合せを行いました
 
とても良い時間で
打合せがまたグリーフケアの実践でした
自分の悲しみを振り返ることで
またひとつ前に進むことができます。
 
検討会の中では
会員の方々の体験談を交えながら
私たちが実践しているグリーフケアについて
概ね60〜70分ほどお話をさせていただきます
 
一般公開ではないので
皆さま方にご案内することは出来ませんが
グリーフケアとりんどうの会に興味や関心のある方がいらっしゃいましたら
別途お話しさせて頂きたいと思っております
 
ご連絡をお待ちいたします

1月の思い

2020/01/05

今日(1月5日)は父方の祖母の祥月命日
昭和39年1月5日66歳でした
私が小学校5年のこと(11歳)
実に56年前の出来事です
 
平成23年1月28日は
妻の祥月命日、9年前でした
そして翌年の1月28日に
ユリが脱走して大怪我を負いました
 
また、平成24年1月13日には
母方の叔父が、お風呂で突然死
好生館の救急センターで
蘇生作業の終了にサインをしました
 
一人ぼっちの生活に
終止符を打つことが出来たのも
4年前の1月です
 
そして今、高齢犬になったユリが
神経障害で看病を受けています
この寒い季節になって
いろんなことが思い出されます

ルミナリエ点灯式に寄せて」(2019)

2019/11/27

こんばんは、両親をがんで亡くした、がん遺族の会佐賀・リンドウの会の古賀です

読み上げる前に、先ず要点をまとめました。

* 精神疾患の父とアルコール依存症の母

* 負債と家族の生活

* 両親のがん

* 気持ちの変化とりんどうの会との出会い

感謝の気持ちを聞いてください。

 

父は妄想で対人関係が上手く行かず転職と入院の繰り返し

カッとなると刃物で威嚇と暴力

母はやるせない気持ちから、私が中学生のころからお酒をあおる日が続きました

家族6人、新築の家に引っ越し家族団らんの時期もありました

そんな中、父の転職が始まり、仕事熱心な母でしたが

生活苦に会社のお金に手を付けて解雇

アルコール依存症が悪化し金融機関より取り立てが続く日々

家族崩壊のものすごい状況でした

 

アルコール依存とその副作用で転倒を繰り返し脳挫傷やケガ

暴れわめく姿、パトカーや救急車は日常茶飯事の事

結婚していた私は、両親と絶縁を決めましたが

母から会社に無数の電話や押しかけが始まり、真夜中も母の搬送などで

眠れぬ夜が続きます

そんな両親に、私も妻も壮絶な憎しみと怒りを感じていましたが

母の私に対する執着心は凄いものでした

 

両親を楽にしてあげたいという一心でアルバイトを掛け持ちしても

その仕送りもお酒に代わっていく日々はやるせない気持ちでした

あの頃はやるせなかった!

しかし、あることを切っ掛けに返済を済ませることが出来少し落ち着いてきたそんな頃

両親のがんが見つかりました

 

父は9年前、前立腺がんステージ4が見つかりましたが

治療放棄や過去の手術箇所の癒着が重なり入院した後も転倒して下半身不随になりました

痩せ細り精神疾患の父でしたが入院して仏様のようになりました

「いつもありがとう」と優しい父に変わり、安らかな眠りにつきました

どうして、お父さんは、最後を感謝の気持ちで迎えることが出来たのかな?

 

母は、3年前に脊椎に血管肉腫ができ、余命二か月と申告されました

下半身から上半身不随となり、緩和ケア病棟へ移り闘病から1年後に最後を迎えました

父に対する後悔の気持ちもあり

お母さんと出来る限り寄り添えるように頑張ったつもりだよ

 

私は父の生前に、楽しく会話をした経験や覚えが少なくて

入院生活後に弱っていく姿を目のあたりにし

親孝行が出来ればとの思いで手を尽くしましたが時すでに遅く後悔が残りました

お父さん、ごめんね!

 

母は施設に入るとアルコール依存症は治まり、毎週通院がてら一緒にお出かけしたね

早6年

阿蘇と柳川下りの一泊旅行、飛んで喜んでいる写真が遺影となりました

お母さん楽しかったね

 

良い思い出がなかった実家を解体整理したところ宝物が出てきました

私の育児記録と父が家族にあてたラブレター・・父の手日記

私が生まれた日、

「元気な男の子が産まれ妻は大喜び、長女と次女と一緒に病院に行き

 先生から男児出産の報告を聞いて大喜び」したと書いてあります

父からのラブレターを見た私は、本当は両親から本当に愛されて育てられたことを知りました

我慢していた感情が一気にあふれ出し、泣き崩れ心から感謝の気持ちと幸せでいっぱいになりました

 

嬉しかったよ、お父さんお母さんありがとう

あんな親にはなりたくないという一心で仕事をしていた私

でも、それは間違いで立派な両親がいたから今、子・孫に囲まれて幸せに過ごしています

私の妻も共に寄り添い我慢してくれました

 

母が闘病中に疲れ果てたりんどうの会と出会い、会員の方々の辛い経験をお聞きし感銘を受けて

りんどうの会に参加することになりました

話を聞いていただき、心が少し軽くなったのを覚えています

愛する人を亡くした辛い気持ちを、一歩踏み出して語ってみませんか

ここには寄り添える方々がいます

 

最後に

辛い時期は何十年と続きいっぺんに変わるものでは無いかもしれません

ただ、乗り越えた後その先に、本当に大切なことに気づきを得て、余生に活かせる時が来るのだと信じます

お父さん

お母さん

空の上で仲良くしているかな

色とりどりの空を見上げて、これからも一緒に生きていくからね

ご清聴ありがとうございました

それでは、ルミナリエに点灯したいと思います・・点灯!!

(古賀正司)

 

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