りんどうの会~がん患者遺族の会・佐賀~

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1月の思い

2020/01/05

今日(1月5日)は父方の祖母の祥月命日
昭和39年1月5日66歳でした
私が小学校5年のこと(11歳)
実に56年前の出来事です
 
平成23年1月28日は
妻の祥月命日、9年前でした
そして翌年の1月28日に
ユリが脱走して大怪我を負いました
 
また、平成24年1月13日には
母方の叔父が、お風呂で突然死
好生館の救急センターで
蘇生作業の終了にサインをしました
 
一人ぼっちの生活に
終止符を打つことが出来たのも
4年前の1月です
 
そして今、高齢犬になったユリが
神経障害で看病を受けています
この寒い季節になって
いろんなことが思い出されます

ルミナリエ点灯式に寄せて」(2019)

2019/11/27

こんばんは、両親をがんで亡くした、がん遺族の会佐賀・リンドウの会の古賀です

読み上げる前に、先ず要点をまとめました。

* 精神疾患の父とアルコール依存症の母

* 負債と家族の生活

* 両親のがん

* 気持ちの変化とりんどうの会との出会い

感謝の気持ちを聞いてください。

 

父は妄想で対人関係が上手く行かず転職と入院の繰り返し

カッとなると刃物で威嚇と暴力

母はやるせない気持ちから、私が中学生のころからお酒をあおる日が続きました

家族6人、新築の家に引っ越し家族団らんの時期もありました

そんな中、父の転職が始まり、仕事熱心な母でしたが

生活苦に会社のお金に手を付けて解雇

アルコール依存症が悪化し金融機関より取り立てが続く日々

家族崩壊のものすごい状況でした

 

アルコール依存とその副作用で転倒を繰り返し脳挫傷やケガ

暴れわめく姿、パトカーや救急車は日常茶飯事の事

結婚していた私は、両親と絶縁を決めましたが

母から会社に無数の電話や押しかけが始まり、真夜中も母の搬送などで

眠れぬ夜が続きます

そんな両親に、私も妻も壮絶な憎しみと怒りを感じていましたが

母の私に対する執着心は凄いものでした

 

両親を楽にしてあげたいという一心でアルバイトを掛け持ちしても

その仕送りもお酒に代わっていく日々はやるせない気持ちでした

あの頃はやるせなかった!

しかし、あることを切っ掛けに返済を済ませることが出来少し落ち着いてきたそんな頃

両親のがんが見つかりました

 

父は9年前、前立腺がんステージ4が見つかりましたが

治療放棄や過去の手術箇所の癒着が重なり入院した後も転倒して下半身不随になりました

痩せ細り精神疾患の父でしたが入院して仏様のようになりました

「いつもありがとう」と優しい父に変わり、安らかな眠りにつきました

どうして、お父さんは、最後を感謝の気持ちで迎えることが出来たのかな?

 

母は、3年前に脊椎に血管肉腫ができ、余命二か月と申告されました

下半身から上半身不随となり、緩和ケア病棟へ移り闘病から1年後に最後を迎えました

父に対する後悔の気持ちもあり

お母さんと出来る限り寄り添えるように頑張ったつもりだよ

 

私は父の生前に、楽しく会話をした経験や覚えが少なくて

入院生活後に弱っていく姿を目のあたりにし

親孝行が出来ればとの思いで手を尽くしましたが時すでに遅く後悔が残りました

お父さん、ごめんね!

 

母は施設に入るとアルコール依存症は治まり、毎週通院がてら一緒にお出かけしたね

早6年

阿蘇と柳川下りの一泊旅行、飛んで喜んでいる写真が遺影となりました

お母さん楽しかったね

 

良い思い出がなかった実家を解体整理したところ宝物が出てきました

私の育児記録と父が家族にあてたラブレター・・父の手日記

私が生まれた日、

「元気な男の子が産まれ妻は大喜び、長女と次女と一緒に病院に行き

 先生から男児出産の報告を聞いて大喜び」したと書いてあります

父からのラブレターを見た私は、本当は両親から本当に愛されて育てられたことを知りました

我慢していた感情が一気にあふれ出し、泣き崩れ心から感謝の気持ちと幸せでいっぱいになりました

 

嬉しかったよ、お父さんお母さんありがとう

あんな親にはなりたくないという一心で仕事をしていた私

でも、それは間違いで立派な両親がいたから今、子・孫に囲まれて幸せに過ごしています

私の妻も共に寄り添い我慢してくれました

 

母が闘病中に疲れ果てたりんどうの会と出会い、会員の方々の辛い経験をお聞きし感銘を受けて

りんどうの会に参加することになりました

話を聞いていただき、心が少し軽くなったのを覚えています

愛する人を亡くした辛い気持ちを、一歩踏み出して語ってみませんか

ここには寄り添える方々がいます

 

最後に

辛い時期は何十年と続きいっぺんに変わるものでは無いかもしれません

ただ、乗り越えた後その先に、本当に大切なことに気づきを得て、余生に活かせる時が来るのだと信じます

お父さん

お母さん

空の上で仲良くしているかな

色とりどりの空を見上げて、これからも一緒に生きていくからね

ご清聴ありがとうございました

それでは、ルミナリエに点灯したいと思います・・点灯!!

(古賀正司)

ルミナリエ点灯式に寄せて(2018)

2019/10/18

リレー・フォー・ライフ・ジャパン2018佐賀、ルミナリエ点灯式(岩永淳子さん)

 

皆様こんばんは

グリーフケア・サロンりんどうの会・がん遺族の会佐賀会員の岩永と申します

リレー・フォー・ライフ・ジャパン佐賀2018ルミナリエ点灯式に向けて

私のメッセージを読ませて頂きたいと思います

どうぞ、聞いていただけると嬉しいです

4回目となるリレー・フォー・ライフ・ジャパン佐賀ルミナリエの前で

メッセージを読むこととなり、一番驚いているのは夫でしょう

今、あなたはどこにいますか?

ここ、ドン3の森に来ているのでしょうか・・・?

きっと木の上にでも座って微笑んでいるような気がします

 

「リレー・フォー・ライフ」この言葉を知ったのは2008年だったでしょうか

翌年に福岡で開催されるという新聞の記事でした

何か気持ちが前に向くような・・

それまで閉じこもっていた心が広がるような予感がしたものです

当時、夫は腎臓の横にある副腎がんと闘って4年が経過していました

元気に働き、スポーツを楽しんでいた日々が突然がんの宣告に生活は一変しました

情報も少ない中、同じがんで戦っている人が居るかもしれない

治療や薬は?自ら病院を探し求めて診断を仰ぐ日々でした

そんな時に目にした記事、リレー・フォー・ライフ福岡

がんの話ができる場所、何度も読み返していました

しかし、一緒に訪れることは叶わず、2009年9月30日旅立ってしまいました

 

翌年2010年9月18日海の中道海浜公園、私はこの日を忘れることはないでしょう

やっと訪れることが出来た、その地はルミナリエが優しく灯り

あちらこちらで笑顔や笑い声が聞こえ、

夫の写真を胸に一人居てもあたたかい気持ちに包まれる場所でした

これまでの事、夫のことをたくさん話しました・・

自分のことのように聞いてくださるスタッフの方に心が打たれました

 

そして、この佐賀の地で開催される様になり沢山の方々との出会いがありました

また、7年目となるグリーフケアサロンりんどうの会

同じ体験をし、それぞれが数えきれない悲しみを抱えていても

思いを分かち合い気持ちに寄り添いながら、少しづつ前へと向いて行くことが出来る気がします

当時学生だった2人の娘たちも自分の居場所を見つけ母となり

去年、父の命日より少し早い9月25日には初孫が誕生しました

良きおじいちゃんになったであろう夫を思う時、またこみあげてくるものがありますが

周りの方のおかげで、ここまで来ることが出来ました

 

最後に、リレー・フォー・ライフ・ジャパン佐賀の実行委員であった本島克子さん

また、2011年初めてのリレー・フォー・ライフ熊本の会場で

独り座っていた私に声をかけてくださった、大分のナミヘイさん

7月、8月と旅立たれてしまわれました

貴方がたの優しい笑顔は忘れることはないでしょう

本当に感謝の気持ちでいっぱいです、ありがとうございました

心よりご冥福をお祈りいたします

 

皆様!ルミナリエに点灯したいと思います・・「点灯」

 

* 次回は2019点灯式の、古賀さんの朗読を紹介します

新聞に掲載されました

2019/09/12

今日の佐賀新聞の「opinion」に私の投稿が掲載されました

新聞記事の写真では読みにくいと思いますので

原稿をそのまま掲載します。

 

私は、2011128日に妻を大腸がんで見送りました。妻59歳、私は58歳でした。32か月の闘病生活で最後は好生館の緩和ケアでその生涯を終わりました。

どうしようもない悲しみの中でもがき苦しみ、毎晩酒におぼれる生活の中で、遺族会を立ちあげないかと声をかけてもらい、がん遺族の会「りんどうの会」を立ちあげました。会の目的は、遺族に寄り添いながら、心の奥底にある深い悲しみを癒すこと。すなわちグリーフケア(悲嘆回復)を実践することです。

ともすれば「頑張ってね」と声をかけがちになりますが、悲しみの中で、もう精いっぱい頑張っているのに、これ以上はもう頑張れないという遺族の気持ちに寄り添い。もう頑張らなくていいよ、泣いてもいいよ、ありのままに悲しみを出していいんだよ。ここにはそういった仲間がいるんだよ。そんな場を作ることが、とても大切なことだと思って、遺族サロンを続けてきました。

私も遺族の一人として、サロンの中でたくさんの涙を流すことができました。

今は悲しみの中にいても、いつか笑顔が戻る時が来ます。自分のために一緒に涙を流してくれる仲間がいることが心の支えになって前に進むことが出来ます。

でも、それは亡くなった愛する人を忘れたということではなく、悲しみを忘れたということでもありません。心の中に悲しみの居場所が出来たということです。だから、何かの拍子に悲しみがひょっこりと顔を出して、涙が出る時があります。

そんな仲間たちと一緒に、悲しみの講演会を開催したり、リレー・フォー・ライフにも参加しました。悲しみの中でも、少しづつ前に進むことが出来るのも、そういった仲間がいるからこそです。

一人で悲しみに暮れている方がいらっしゃいましたら、是非りんどうの会のドアをノックしてください。遺族の方にやさしい場所があることをお伝えください。りんどうの花言葉は、「君の悲しみによりそうです」。

 


2019年8月のサロン

2019/08/24

サロンは、この様な円卓形式で行われています。

テーブルには会員だけが座り、各々の今の気持ちなどを話します

一人の方が話している間は、ほかの方は傾聴に徹してもらっています

(カメラが入ったので、皆さん少し緊張していますね)

このほかに、ボランティアで参加していただいている方がいます

座る位置は、全員が写っている写真の右手前です(この写真もその方の撮影です)

それと、賛助会員として、緩和ケア・スピリチュアケアが専門の医療者が

左手前にいて、会員の問いに応じてアドバイスをしていただいています

入会を迷われている方がいらっしゃいましたら

先ずは、見学に来てください

会員一同、あなたのお出でをお待ちしています。


夫の命日に

2019/07/26

平成6年7月26日朝8時18分

夫は、わずか3ヶ月の闘病の後、37歳の若さで私と3人の幼い息子を遺して旅立ちました。

「まだ子供達も小さいし、やりたい事がたくさんあるから死ねないよ!」と言いながら、

でも病状は悪くなるばかりの中でどんなに辛かった事でしょう!

 

随分、遠い日のことのようですが私達にとっては、昨日の日のことのように思い出されることもあります。

体調が悪くなり、心身ともに辛い中で、夫は最期まで「有り難う」と私に優しく声をかけてくれました。

家族思いのあんなに優しく元気だった夫を失い、なかなかその事を受け止められず、私も子供達も悲しく辛い日々が続きました。

 

でも、たくさんの方々の温かい支えの中で、私は看護師となり子供達を育てることが出来ました。

長男、次男は夫と同じく良きパパになりました。生後8ヶ月だった三男は看護師になりました。

辛い時、悲しい時はいつも心の中の夫が相談相手で心の支えでした。

いつもすぐ側で見守ってくれました 。

 

今日もいつも通りに感謝の気持ちで過ごします。

そして夫の大好きだったソフトバンクホークスの応援📣に行きます。

 

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