りんどうの会~がん患者遺族の会・佐賀~

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2017年11月

2017

曽於市に行って来ました

2017/11/25

鹿児島県曽於市にある
曽於市医師会立病院で開催された
グリーフケアの会「コスモス会」に
オブザーバーとして参加してきました
 

これは、がんサポートかごしまの遺族サロン
「ほんわか」(座長・椎屋美穂子さん)の活動に
同行させていただいたものです

  
この病院では、これまで患者会や家族会の開催はされていたそうですが
今回初めて遺族会を開催するということで
がんサポートかごしまからの派遣が行われたものです
遺族の方と看護師の方々と前後合わせて2時間ほどの会でした
 
りんどうの会とは違って、看取りがあった病院単位の遺族会では
闘病期間中の話も出てきます患者さんが家族には直接言えなかった話などもあって
遺族の方が、「来て良かった」という一幕もありました
 
参加させていただいて、ありがとうございました

リレーフォーライフ2017佐賀・ルミナリエ点灯式

2017/11/15

リレーフォーライフ2017佐賀・ルミナリエ点灯式

2017(平成29)年9月23日(土)

 

会場にお集まりの皆様、こんばんは。

佐賀市内で開催しています「グリーフケアサロンりんどうの会・がん遺族の会佐賀」の、

会員のMと申します。

今日は、この会場にお集まりの皆様の代表として、ルミナリエ点灯に先立って、私たちの愛する人へ、メッセージを読ませて頂きます。

私の唯一の家族である私の妻は、4年前に消化器系のがん「スキルス胃がん」で旅立ちました。

祖父、祖母、父、母、兄弟、姉妹、

パートナー、子供、恋人、親戚、友人、知人、

愛する人との関係は違っても、

 

愛する人が旅立たれていても、

今、がんと向き合われていても、

私たちの愛する人への想いは、皆同じです。

 

これから私が語りかける言葉の中に、「我が愛しい人よ」、と、語りかける部分があります。

どうか、「皆様が、皆様の愛しい人に語りかけているのだ」、と、感じて頂ければ幸いです。 それでは

よろしくお願いいたします。

 

 我が愛しい人よ

 たとえ、今この目に見えずともこの耳に聞こえずとも

 あなたが、私の傍にいつも いて下さることを知っています

 そして、あなたの愛の力で私を守り、導いて下さっていることを知っています

 

 我が愛しい人よ

 あなたが経験された病がどんなに理不尽なことに思えても

 どんなに辛く苦しいことに思えても

 その病はあなたと私が何か過ちを犯したから生じたのではなく

 あなたと私が真実の愛を体験し、実践するためにあったことを知っています

 そして、今肉体の重みから解き放たれたあなたが

 光り輝く世界の、更なる高みに向かって歩み続けられていることを知っています

 

 我が愛しい人よ

 これからの私の人生が家族がなく一人で生きるとしても

 新たな家族と共に生きるとしてもあなたへの私の愛は変わりません

 そして、私へのあなたの愛が変わらないことも

 知っています

 

 我が愛しい人よ

 どうか、今宵一晩私たちと共にこの地で過ごしこの地を愛の力で満たしてください

 そして、この地に集うことなく人知れず、今 病と向き合われている方々を

 離別の悲しみと向き合われている方々を愛の力で包み、導いてください

 

 我が愛しい人よ

 かけがえのない人生をありがとう

 

 皆様、ルミナリエに点灯したいと思います。

 ルミナリエ 点灯

佐賀新聞に掲載されました

2017/11/14

15日(明後日)のサロンを紹介して頂きました。

五周年記念講演から(第9回)

2017/11/10

第9回 グリーフケア資料 (最終回)

グリーフケア(悲嘆回復)について

それは、死別を経験した遺族の悲しみからの回復

 死別で失うのは、自分の命ではありませんが、失った命は共に生きてきた証であり安心・安全なよりどころだったのです。故人と遺族はお互いの人生の中で生活を共有してきていました。大切な人を失った生活では、新しい生活を見いだすことができずに、人生の目標を失ってしまうこともあります。

 

悲嘆の一般的な経過

  • 感覚麻痺の時期・・・死別の事実を受け入れたくないという感情が出ることもある
  • 思慕・探索期・・・・故人の面影を追い求める。ゆかりの場所に行ってみたくなる
  • 落ち込み・抑うつ期・疎外感を感じて、身体的・精神的にも悪化が起こりやすくなる
  • 回復期・・・・・・・現状認識が進み故人を忘れるのではなく、不在に慣れてくる

 

死別悲嘆に対する援助のあり方

  • 情報的な援助・・死別悲嘆で起こりうる反応を遺族に情報として伝え、死別悲嘆が普通に遺族に起こる正常な反応であることを理解するきっかけを提供する。
  • 情緒的な援助・・悩みを聞きとる姿勢、共感性を持つ姿勢、優しい働きかけや、歩み寄りを促す姿勢が必要
  • 道具的な援助・・死別による生活環境の変化のために、日常生活を行う中で困ったことに対する援助
  • 治療的な援助・・死別悲嘆からくる健康障害や精神障害に対する医療機関による援助

 

悲嘆回復への対応での注意点

良き聴き手に徹する(傾聴)

 遺族の心は良き聴き手を望んでいます。言いたい思いに心は満ち溢れているのに、誰にでも話せるものでもなく、ふさわしい聴き手に聴いてもらえる機会を待ち望んでいます。

注意したい言動とは

  • 励ましや激励・・・・特に「頑張ってくださいね」は禁句。安易な励ましはしない
  • 悲しみの比較・・・・悲しみは主観的なもので個人で異なる。比べることはできない
  • 経験の押し売り・・・第三者的な経験上のアドバイスは、マイナス効果になりやすい
  • 気休め的な同意・・・安易な同意には誠意の心がこもらないことが多いので要注意
  • 叱咤する、制止する・「もう泣かないで」「いつまで悲しんでるの」は相手を傷つける
  • 返答に詰まったら・・話をちゃんと聴いているという意思をしっかりと伝える
  • 自分勝手な判断・・・悲嘆回復の通説・俗説には間違いも多いので軽々しく使わない
  • 知識の誤引用・・・・悲嘆自伝や欧米の学説などが当てはまるとは限らない
  • 宗教観の押し付け・・不幸につけこむ詐欺師や扇動者の存在に要注意
  • 目的の再確認・・・・相手が感情を余すことなく打ち明けられる心境を保つこと
  • 話の腰を折る・・・・語りかけ、説明する立場の人(例:医師・僧侶・教師等)に見られがちな行動。聴き手が話をリードすると遺族は話づらくなる

 

 

五周年記念講演から(第8回)

2017/11/05

第8回 (体験談 RFさん)

 妻が大腸ガンで亡くなったのは平成23年1月末、59歳でした。もう二度と逢うことのできない寂しさ、電気もついていない真っ暗な家、暖房など効いてない冷たい家、ただいまと言っても返事のない誰も私を待っていない家に帰ってくるのがとても辛く、その辛さから逃げるようにお酒に溺れる日々でした。

 

 また、妻の死を知らない方から「奥様お元気ですか」と声をかけられて、「亡くなりました」と答えた時。街中で妻によく似た人を見かけた時。妻が喜びそうな話題に触れて、早く帰って話してあげたいと思った時に「もういないんだ」という現実に引き戻され、心が傷んだものでした。

 そんな時に、がん遺族の会を立ち上げませんかと声をかけてもらったのが、りんどうの会を立ち上げるきっかけでした。

 

 妻のガンが見つかってから3年2ヶ月を、様々な思いを抱えながら、共に歩きました。悔しいことや、疑問に思ったことなどいろんな場面に遭遇しましたが、一番大きな決断を迫られたのは、抗がん剤治療を止めるという妻の申し出を受け止める時でした。抗がん剤治療を止めるということは、死が現実のものとして迫ってきます。死を受け入れる覚悟が求められます。

 でも妻は、抗がん剤の副作用で、脱毛や指先の荒れに加えて、味覚障害を起こしていました。嗅覚は正常でしたので、香りは美味しく感じるのに、口に入れた瞬間にそれは灰色の物体に変化して味がしないどころが、そのザラザラとした感触が辛かったと言っていました。

 そのような時、別の治療で通っていた病院の院長から、「このまま抗がん剤を続けてインフルエンザで死ぬか、治療をやめてガンで死ぬか、人は結局死ぬんだから」という話を聞いて、「人はいつか死ぬ」ということに改めて気づかされました。

 

 人はいつか死ぬ、そうであれば人として生ききって、美味しいものを美味しいと感じる暮らしがしたい、普通の暮らしの中で最後を迎えたいという妻の願いを受け入れることにしました。

 死ぬことの選択は、生きることの選択。そう言った思いに行き着くまで、何回も妻と話をしました。

 

 そして、抗がん剤治療をやめる決心をしました。最後の抗がん剤治療を受けたその日から322日目に妻は帰らぬ旅に逝きました。

 

 それでも、抗がん剤をやめたことで妻は元気になりました。東京、京都と子供達の所に行くこともできました。夏には私と旅行にも行きました。妻の父親の白寿のお祝いでカラオケも披露しました。周りの人たちは、妻のがんは治ったものと思われていたようです。

 妻が望んだ生活がそこにはあったのでしょうか。

 最後の旅行の時に妻がポツリと言った言葉

「私はあなたによって生かされる」

その時は意味もわからず、聞き返すこともできずにいましたが、時が経つにつれて、おぼろげにわかるような気がしています。

 

 秋も終わる頃から徐々に体調が悪化して行き、腫瘍マーカーも数値も徐々にあがっていき、一日のほとんどを毛布に包まって横になっていました。そして緩和ケア科に入院することになりました。

 緩和ケア科に入院すると妻は一時的には元気を取り戻し、春には退院したいねと言っていたくらいです。

 

 その緩和ケア科で看護師の方からかけていただいた言葉は本当に暖かく嬉しいものでした。

 それは、亡くなる数日前のこと。家族を呼ぶようにと言われて病室を後にした時に、「緩和ケアは患者さんだけでなく家族の方の心のケアもするのですよ、辛い時は声をかけてください」と言ってくださいました。堪えていた涙が溢れ出してしまいました。持って行きようのない辛い心を慰めてくれました。その数日後に妻は亡くなりました。

 

 悲しさと寂しさが一気に押し寄せてきたのは、葬儀も終わって、親戚も家族もそれぞれの生活に帰った後、一人自宅に残されたとき、もう絶対に帰って来ることのない現実をつきつけられたとき、白い布に包まれて祭壇に安置された遺骨と写真を見つめながら一人ぼっちな自分を感じた時に、言いようのない絶望感と悲しさが溢れてきました。

 

 冒頭にも言いましたが、毎日毎日がお酒に頼る日々でした。それでも昼間に仕事がないときは、よくドライブに行きました。決まって九重・阿蘇方面です。山道を走りながら、もしかして天国に向かう道が現れたら、迷うことなくそっちにハンドルを切りたいと願ったことも1度や2度ではありませんでした。もちろんそのような道があるはずもなく、引き返す道がとても重たく遠く感じました。

 

 そんな私を救ってくれていたのが、ペットの黒柴犬のユリでした。ユリは、緩和ケア病棟の妻の病室にも何回か行きました。入院している時の朝の散歩では、意識して病室から見える道を歩き、「下を通るよ」と連絡を入れたものでした。

 

 そのユリを朝夕散歩に連れていかねばならないという思いが、ある意味規則正しい生活を作ってくれました。

 ユリは裏庭で放し飼いにしているのですが、一周忌の数日前からユリは気が狂ったような興奮状態にあり、木戸を破って逃走を図り交通事故にあって大怪我をしました。獣医師に聞くと、飼い主の一周忌に合わせたように死んだり、異常な興奮状態になるペットは多いそうです。

 きっと、動物にだけわかる本能的な勘で、妻が帰ってきていることを感じ取っていたのかもしれません。

 そしてまた、ユリが生還してきたのは、きっと妻が私がひとりぼっちになることを心配して、生かしてくれたものと思いました。

 

 そのような時の遺族会の立ち上げのお誘いは、自分が進むべき道を示してもらったような思いがしたものです。藁にでもすがる思いでそのことに没頭して行きました。

五周年記念講演から(第7回)

2017/10/31

第7回 (体験談 CKさん)

 私が皆様方にお伝えしたいことは、「グリーフケアは患者は勿論、患者の家族、・遺族にとっても大切である。グリーフケアのためには、ありのままの感情を安心して出し、気持ちを分かち合える人と場所が必要だ」ということです。

 私の夫は、娘が3ヶ月の時に大腸ガンと診断され、3歳になる直前に亡くなりました。夫が亡くなって10年が過ぎ、家族・親族・周囲に助けられ、私は看護師になりました。幼かった娘も現在中学1年生になり、子育てをしているというよりは、娘に支えられていることの方が多い日々です。

 私が「りんどうの会」を知ったのは、がんの父親を持つ娘の育て方をどうすればよかったのか、看護師として働く上でも、子育てを振り返り、新たな出発点にしたいと考えていた時でした。振り返れば、夫の介護が中心となり、夫が亡くなってからはすぐに働き始め、娘の世話は保育園や祖父母に任せっきりになっていました。すぐに働いたことは、私にとっては気が紛れて良かったと考えています。しかし、娘が抱っこをせがんできても、「今、忙しいから後でね」とすぐに対応することがなく、十分な子育てをしてこなかったことを後悔していました。そのような中、がん患者の子どもの支援にも「グリーフケア」があり、子どもの支援のためにも、がん患者の配偶者、遺った親の支援が必要であることを知りました。そして、佐賀にも遺族を中心として活動しているセルフケアの会:「りんどうの会」があることを知りました。

 りんどうの会に初めて訪れた時、私は軽く自己紹介するだけのつもりでした。しかし他の会員の自己紹介で様々な思いを聴いていると、自分と共通・共感することがありました。初対面にもかかわらず「私のことも聴いてほしい」と思いました。例えば「どうしてがんに気づけなかったの?」「何か症状はなかったの?」との周囲の言葉に自分を責めたこと。「今は辛いけど、時間が必ず解決してくれるから」「思ったより元気で安心した」「気持ちはわかるよ」「大変だったね」等の思いやりの言葉さえ卑屈に感じてしまったこと。「泣いたら駄目、心配かけたら駄目」と感情に蓋をし、前に進むことだけを考えてきたこと等を、堰を切ったように話してしまいました。涙が止まらなくなり、たくさん涙を流した後は、気持ちが楽になり、本当は誰かに自分の辛い思いを聴いて欲しかったことに気づくことができました。

 同じような経験をした遺族のりんどうの会の皆さんに共感しながら、聴いてもらうことで安心して話せたように思います。そして、娘や夫に対して、これまでは何もできなかったとばかり考えていましたが、その時にできることを精一杯やってきたのだと思えるようになりました。

 10年が過ぎても、寂しさがなくなったり、夫を忘れたわけではありません。思い出すと辛くなることもあります。けれども、思い出すことは自分の気持ちの整理に繋がり、生活に楽しみや生きがいを見つけるきっかけになってきたと考えます。そのためには、安心して話せる人と場所が必要です。その安心できる人と場所が「りんどうの会」です。

五周年記念講演から(第6回)

2017/10/26

第6回 (体験談 JIさん)

 

 永遠の別れは、秋風が吹く9月の終わりでした。副腎ガンと闘った夫の5年間を先ずは話したいと思います。

 腎臓の横にある副腎という小さな臓器のガンと診断された時は、大きくなっており直ぐに手術となりました。抗がん剤治療後は仕事にも復帰し、以前の生活が戻ったかのようでした。

 3年が過ぎた頃、転移を告げられました。セカンドオピニオンをしたいと、九州がんセンターへ。二度目の手術があり、また抗がん剤投与、初めて髪の毛が全て抜けました。

 1年近く経った頃、肝臓と後腹膜にも転移があると再び告知。自分でも予後が悪いガンの様だと言っていました。情報が欲しいと同じガンで治療している人と話ができたらと調べ、パソコンの前にいつも座っていました。肝臓にできたガンは治療が難しいと告げられた時は退院をしたいと言っていました。

 紹介状とフィルムを持ち上京。東大病院へ診断を仰ぐことになりました。「遠いところからよく来たね。自宅から通いながら治療ができる病院がありますよ。頑張ってください」と励まされた時の夫の嬉しそうな表情、姿は今でも忘れることはありません。それから、久留米・熊本での病院で治療をしていただき、自宅での生活も増え、旅行もできました。カメラを持ち、自然の中を散策しては花や景色を撮っていました。

 抗がん剤で味覚が変わり、食べることが難しくなった時は、嘆くのでもなく食材を買い求め、調味料を工夫してよく台所に立っていました。「美味しくなった、これで食べられる」と家族のぶんまで作ってくれ嬉しそうでした。

 そんな夫に身体のきつい状態やガンの進行程度、副作用の症状など話すことすらためらわれ、その先のことを考えても封印していた様に思います。病気になる前は、地域の事業にも参加し、スポーツ少年団にも力を入れていたので、子ども達に会えず残念そうでした。

 一部の方には事情を打ち明けていましたが、近隣の方々にはオープンに出来なかった事が悔やまれます。リレー・フォー・ライフというガン患者さんのイベントが福岡で初めて行われると新聞の記事を見ながら、ここなら話ができる、一緒に行けば良かったと、これも悔やまれます。

 

 その日は、自宅でコーヒーを煎れたり朝食をいつもの様に摂っていましたが、腹痛を訴え急変しましたので、入院となりました。一週間後でした。会話は出来て、よく汲みに行っていた水を飲み美味しいと言ったり、退院したらまた行こうと話しました。亡くなる日の前日も「また明日」と家族で帰宅した翌朝、病院からの連絡で駆けつけた時は、会話はできませんでした。

 とうとう来てしまった・・今日なのだ・・と。それまで封印していたものが溢れ出て、もっと話をしておけば良かった、ちゃんと話をしておけば良かった、会いたい人もいただろう、会わせたい人もいた・・悔しかったのは夫だったでしょう。

 亡くしてしまったのち、私は想像もしなかった心境に動揺し、この世にこんな苦しみがあるのか、立ち直ることが出来るのだろうか・・と誰にも言えず悪いことばかりを考えていました。

 心理本や精神医学の書籍コーナーで自分の今の気持ちと同じものはないかと読み漁ったり、他の方の苦しみと自分のとを比べたりと全く気持ちは落ち着きませんでした。

 りんどうの会のドアを開けるのも勇気がいりました。抑えていた溜まっていた気持ちをスムーズに伝えられるのか・・・。でもそこは同じ体験をし、同じ悲しみを一番に理解してもらえる場所でした。前もって話すことを考えなくても、消化不良の様に溜まっていた気持ちが溢れ出て、他の人の聞いていても、うなづくことも多く、少しは理解ができている気がします。7回忌が過ぎ、今年で8年となりました。当時は大学生と高校生だった二人の娘も20代後半となりました。そして長女は今月の中頃には母になります。「お父さんの命日に生まれたら嬉しいな」と言っています。

 初孫を抱いて欲しかた、良きおじいちゃんになったであろう夫を想う時、また込み上げてくるものがありますが・・・周りの方々のおかげでやっとここまで来ることができ、夫の分まで未来を向いていこうと思っております。

五周年記念講演から(第5回)

2017/10/21

第5回 (体験談 MAさん)

 

 皆さま、こんにちは。私は十三年前に当時四十五歳だった妻を、滑膜肉腫という筋肉にできるがんで亡くしました。私が四十七歳、一人息子が中学一年生の時でした。

 この会には設立当初から参加させていただいています。もう亡くなって8年経っていましたので、当初のつらさは薄らいできていたものの、つらいことには変わらず、この会に参加することで、もう一度自分の気持ちを整理してみよう、また自分の経験を他の人に伝え、役立ててもらえるならという思いからでした。もちろん亡くなった当初もこういう会があったらと思っていました。

 まず、当初のつらさについてお話してみたいと思います。やはり後悔ということです。妻の命を救うことができなかった、あの時ああすればよかった、など。最初混乱しているときは病院のせいだと考えた時もありましたが、冷静になってみると、もちろんそういうことではありません。

 それから、孤独ということ。これから何十年か一緒にいると思っていた人がいなくなってしまう、よく心にぽっかりと穴が開くとい

いますが、まさしくその通りの気持ちでした。私の場合両親と息子がいましたので、ふだんは話す相手もいましたが、それでもテレビでみるような、パートナーがいる時と同じように話しかけようとして、いなくなったことに気付き、寂しさを感じてしまうこともありました。また、妻の夢をみることもあったのですが、私は夢の中で、亡くなったことが夢だったと思い、その瞬間大きな安堵感を覚えたことを思い出します。やはり、大きなプレッシャーを感じていたんだと思います。

 このようなさまざまな苦しみ、悲しみを感じながら、日々を過ごしてきた私ですが、その中で支えとなったのは、亡くなる数日前に妻が言ってくれた私への感謝の言葉です。すでに脳への転移のため、言葉がうまく聞きとれませんでしたが、その日泊りで看病していた私に感謝の言葉ははっきり聞き取ることができました。生前から私のピンチの時に助けてくれた妻でしたが、自分の体が大変なのに

私へみせてくれた気遣いに、今思い出しても頭が下がります。なお今年は息子が素敵なパートナーをみつけ、今月入籍という嬉しい知らせを妻に届けることができました。

 この会に参加して、会員の皆さんとそれこそ共に泣き、笑ってきました。共通する体験も多く、人間の心の不思議さも感じます。また、同じ体験をしている者同士ということから、不思議な体験など知人にも言えないことも話すことができました。まだ少しの一歩ですが前に進むことができたと感じています。

今 苦しみの中におられる方にはぜひ一度この会に参加してみられることをお勧めしたいと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

 

五周年記念講演から(第4回)

2017/10/16

第4回 (体験談 MSさん)

 

 こんにちは

私は平成6年、わずか3ヶ月の闘病ののち、夫を癌で亡くしました。

ちょうど3番目の子供が生まれ、我が家も一段と賑やかになり幸せの中での突然の出来事でした。

 風邪ひとつ引いたことのない夫が体調不良を訴え検査入院しました

異常なく直ぐに、帰って来てくれると軽く思っていました。

しかし、もう手の施しようのない末期ガンという予想もしない、医師から私への告知でした。

夫は入院当初はとても元気で、誤診ではないかと思うほどでした。

まだ37歳、あんなに元気だったのに・・・人間ドッグも受けていたのに・・・年齢も若く、友人や周りに同じような体験者も無く、一番の相談相手の夫には相談できず、あまりにも大きな悲しい現実を、直ぐには受け止めることは出来ませんでした。

これから我が家に襲いかかる、逃れることの出来ない、悲しい現実を、何も知らずに、はしゃいでいる、子供達を見ていると胸がおしつぶされるようでした。

「まだ、やりたいことがたくさんある。子供達の成長も楽しみだし、必ず元気になるから心配しなくて良いよ」と優しく声をかける夫に真実を告げることは出来ませんでした。

その言葉とは裏腹に癌は刻々と夫の体をむしばんでいきました。

 八方塞がりの状況の中で、妻としての時間は残り少ないけれど、とにかく妻として精一杯の事をしよう、妻の時間を楽しもうと思いました。残り少ない夫の人生を思う時、病室に毎日、飛びっきりの笑顔を届けたい、と思いました。

でも「又、明日、来るね!」と笑顔で手を振り、扉を閉めた途端、大粒の涙が流れました。いつか終わりを迎える入院生活を思う時、途方もない不安と悲しみでいっぱいでした。

 

 

 夫も少しずつ病気が悪くなるにつれ死期を悟ったのだろうと思います。

自分の亡き後、苦労するであろう私のことを不憫に思ったのでしょう。少しのことにも最期まで「ありがとう・・ありがとう」と優しい夫でした。

平成6年7月26日の朝、37歳の若さで他界しました。

長男8歳、次男5歳、三男は8ヶ月でした。

幼子を抱えて悲しみの中、途方に暮れた日々が遠い日のことのように又、昨日の事のように思い出されます。

夫が他界し約2年間、引きこもりに近い状態で過ごしました。

子供達の成長していく姿を見ているといつまでも立ち直れない自分の姿が情けなくなりました。

夫があんなに大切に思っていた子供達をしっかり育てる事、幸せに生きていくことが何より夫の望むことだと思いました。

想像もできないような大きな悲しみや喪失感を体験し、この経験を活かして生きていけたら・・・と思うようになり看護学校に通い始めました。

45歳で看護師になり緩和ケア病棟で働き始めました。

私の描いていた未来予想図とは随分、違う人生を歩いてきました。

私のような経験はもう私達家族だけで終わりにしてほしいと思いますが、残念ながら今、この時も大きな悲しみの中で苦しんでいらっしゃる方はおられます。

看護師として患者さんやご家族に寄り添うことは出来ますが、ご遺族に寄り添うことには限界があります。ご遺族の悲しみに寄り添い、少しずつでも希望を持ち、歩いていけるよう、りんどうの会があります。ご遺族のお心に寄り添いながらこれからも私らしく生きて行きたいと思っています。

 

五周年記念講演から(第3回)

2017/10/11

第3回 (体験談 HM)

 

皆様、こんにちは、私は「治らないがん」に罹られた方と、その方の家族の方の「心と魂へのサポート」の必要性について、体験を交えて話させて頂きます。よろしくお願いします。

私の唯一の家族である私の妻は、今から5年前の夏、消化器系のがん「スキルス胃がん」と診断されました。そして、約7か月間の闘病生活の後、40代半ばで旅立ちました。

愛する人が病に罹ること、病と闘った末、この世から旅立つこと、離別すること。その辛さは、愛する人の年齢とは無関係であることは、頭では理解していましたが、

現実に突きつけられると、心はまったく納得できませんでした。

 妻と私にとって、スキルス胃がんの告知は、あまりにも突然で、絶望的なものでした。

妻が胃に違和感を感じて、住まいの近くの病院を受診すると、すぐに、同じ町にある「がん診療連携拠点病院」へ転院することになりました。

 

査結果は、「スキルス胃がん」でした。

妻は転院時に、「病気について全て告知を受ける」と意思表示していましたので、先ほどの病名とともに、「胃以外の場所への遠隔転移を伴うステージ4」であること、

「手術の適応外」であること、「抗がん剤による化学療法を行うか行わないかの選択と、体の痛みを少なくする緩和治療の必要性」について告知を受けました。

担当の先生は、告知で妻が受ける衝撃を出来るだけ少なくしようと、慎重に言葉を選んで話して下さいました。話しては下さいましたが、妻が直面した現実は、「病気は治らない この世から旅立つ時が遠からず訪れる」というものでした。

告知を受けた後すぐに、私と妻は、標準治療以外で治癒する可能性のある治療方法を懸命に探しました。

 先端医療、研究中の治験、自由診療によるさまざまな治療方法について、化学療法による入院治療中には、主治医の先生にも相談しました。

 ですが、「胃がん全体の約1割を占めるスキルス胃がん、遠隔転移を伴うスキルス胃がんは、『治しにくい』というより『治らないがん』なのだとゆう事実は、心は納得できなくても程なく受け入れざる得なくなりました。

治らない病と対峙する妻のため必要としながら得られなかったもの、それは、「妻の心と魂に寄り添い、心と魂の不安・痛みを少しでも癒やすことのできる、私以外の存在」でした。「体の不調・痛み」については、お医者さんと看護師さんがしっかり対処して下さいました。

ですが、「心と魂の不安・痛み」に対処して頂ける場所が見つからないのです。最愛の、唯一の家族である妻ですから、私が気付き、出来ることは、当然すべて行いました。「私が全力で妻を支える」と、自分に誓いました。

 それでも、「『病との闘いの末、旅立つ最愛の人』を看取った経験のない私は、私自身の力不足を痛感しました」

その拠点病院には、ボランティアの方が運営する、がんサロンがあり、毎月2回開催されていました。妻のサポートをして頂ければと、妻の入院治療中に、私一人で行きました。しかし、運営スタッフの方が、全員、その時点では「がんサバイバー」なのです。

 

「治らない、治す手立てがない」事実を突き付けられた妻を連れて行ける訳がありません。 

 

病院外の地域社会にも、最後まで見つけることはできませんでした。「治らないがんと向き合われている方と、家族の方に寄り添う」には、寄り添う側が高いスキルを身に付け、細心の注意を払って寄り添う必要があります。その様な場を作ることが難しいことも、今は実感として理解しています。ですが、闘病中の妻と私には、やはり必要でした。

正確な知識と、豊富な経験のある医療関係者が、医療行為として、「治らないがん」と向き合われている方に、体と共に、また、体に先立って、「心の不安・痛み」を和らげて頂ける医療システムが、日本に構築されることを願っています。また、がん遺族となった私は、がんによる離別に対峙して、乗り越えた遺族であれば、「魂の痛み」に寄り添うことはできなくても、「心の痛み」に寄り添うことはできるのではないか、と考え始めています。

 

これで私の体験発表を終わります。

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